アートの神がいるのなら

 「くっきり、色鮮やか!」
 テレビがまだブラウン管だった頃、これがお決まりの宣伝文句だった。

 少し強くなった初夏の陽に照らされ、窓枠いっぱいに映し出された今の園庭の風景こそが、まさにそれに相応しい。少し事務仕事が立て込んでいた先日も、いたたまれずに、その画面の奥へと飛び込んで行った。

 園庭のあちこちに散らばる、ささやかな遊びの輪を、ブラブラと覗いて回る。年度が始まった今の時期は、ふた月ほど前の年度末に比べて、園児全体の年齢が一歳若い。
 あの冬の頃、友だちと頻繁に言葉をかわしながら、ダイナミックに園庭を駆け回っていた姿とは少し違って、しっとりとした静的な雰囲気が漂っている。ひとつ進級を重ね、少し広がりを増した世界に、辺りを見回しながら、ようやく一歩を踏み出したところ…そんな印象だ。
 そして、少し強めの日差しを避けるため、しっかりと木陰を陣取って遊び込む姿にも関心をする。 

 どの遊びを覗いても、そこには、必ず遊び道具や自然物がある。つまり遊びとは、「モノ」と戯れることであることがよくわかる。そこにだんだんと、「ヒト」との関わりも絡み合ってくるのだが、集団遊びを見ても、何かに見立てる「モノ」の存在は、やはり欠かせない。

 保育室に「玩具」があるように、園庭に必要なのは、「ガラクタ」だ。カップ、木片、シート、ビールケース、古タイヤ…道具にも素材にもなるそういったものは、子どもにその区別などはなく、決めるのは本人。ボールを渡したって、それはスイカにだってなってしまう。

 そういったガラクタに、シャベル、ジョウロ、虫取り網といった、本来の道具も加わることで、子どもだって、特別な力を手にすることができる。そのおかげで、草、木、実、土、砂、水、風、虫といった自然物と、ずっと深く関われるようになるのだ。その探求が、子どもにはたまらなく面白い。

 そんな園庭を巡り、カメラを片手に、遊びのバリエーションをコレクションしてみるのだが、一回りをして戻ってみると、そこにあった遊びは、もう別の形に変化をしているので、このキリのない作業が、何だかバカバカしく思えてくる。前の遊びを、別の子どもが引き継いでいたりするからなおさらなのだが、やりっ放しが、他児の探究心を呼び覚ましていくのも、遊びの大切な光景なのだと思う。

 そんな園庭の一角で、造形作家こいちさんと一緒に、造形遊びも繰り広げられていた。画用紙の上に、筆、クレヨン、色鉛筆、タンポ、ヘラなどを使って、「見て!」と声を上げなら、ワイワイと、たくさんの色を塗り重ねている。
 何と言っても、この園庭遊びの全体の風景の中に、しっかりと溶け込んでいるのがいい。そう、これも他とは変わらない「遊び」の一つなのだ。

 数メートル先の砂場で型抜きされた砂の造形は、それに満足をした子どもの手によって、跡形もなく掻き消され、それは、砂山の一部へと帰っていく。一方、絵筆で描かれる絵画というものは、「作品」と称され、否応なくその足跡が残されていく。それは時に、真っ白な画用紙の前で、子どもたちに無用な緊張を強いているのかもしれない。遊びなのに本番がある…そんな印象。

 ただ、どちらにも共通するのは、子どもは、完成を目指すのではなく、砂が形を保つ様子、絵具から生み出される独特の色や表情、そうした現象に、ただひたすらに心を揺らしているということ。
 「創る」というより、目の前に立ち上がる造形(現象)と、自分の手の動きの関係を、何度も、眼と身体に刻み込んでいる…そのように見えて仕方がない。この乳幼児期の芸術とは、小難しい言い方をすれば、「身体的な経験」、つまり製作の過程にこそ意味があるのだろう。

 そして、こう願わずにはいられない。
「砂場の型抜きには、「作品」としての一瞬の輝きを! 絵画には、名もなき遊びとしての気軽さと、失敗できる喜びを!」

(園からの便り「ひぐらし」2021年5月号より)

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