人呼んで

 秋らしい爽やかな空が広がる園庭で、はなぐみ(2歳児クラス)が、泡遊びを繰り広げていた。

 水遊び、泥遊び、粘土遊び…手の平を始めとした、皮膚感覚を通して楽しんでいく遊びを総称して、「感触遊び」と呼ぶ。

 この感触を味わうという機能は、生まれながらに備わっているものではない。硬い石ころを掴んだり、冷たい氷に触れたり、紙ををクシャクシャと丸めてみたり…そんな他愛もない日常の遊びの中で、様々な刺激を身体に入れていくことで、磨き育てていくもの。だから、特にこの2〜3歳くらいまでの間に、色々な感触遊びを、たっぷりと楽しんでいくことが重要なのだ。

 なので、この泡の感触も、初めての頃は、子どもたちにとって相当に気味の悪いものらしく、はなぐみでも、春から様々な感触遊びを展開しながら、最近になって、子どもたちも、この泡遊びの面白さに気づき始めた所とのことであった。

 それは、感触もさることながら、ふわっとしていて重さを感じないのに、粘土のように形が崩れないという、泡ならではの不思議な特性にも、興味を奪われているからに違いない。それは、個体や液体の性質といったものが、だんだんとわかってきていることの証。目の前の泡は、そういったものには当てはまらない、独特な振る舞いをするから、面白いのだ。

 この世に生を受けてから、この数年の間に、身の回りの多種多様な素材に触れ、関わってきたこと、つまりしっかりと遊んできたことが、次なる興味や関心の扉を開いていくのだ。

 さらに、担任たちのこだわりは、三原色に着色した3つの泡を用意したこと。もう少し年齢を重ねると、色水遊びの中で、「青と黄色い水混ぜて、緑の水!」といって、混色遊びに興じるようになるのだが、泡の場合は、カフェで提供されるラテアートのように、完全に混ざり切るまでは、なんとも言えない淡いマーブル模様が楽しめるというのだ。

 なるほどと感心しながら、二色の泡を入れた子どもたちのカップを覗き込んでいると、そこへ水を流し込んで、「ビール!」。別の子は、泡立て器の中に溜まった泡の中に、落ち葉をさして「ほら!」。

 だんだんと、それぞれの遊びへと変化させていく子どもたちの間を、ふらふらと渡り歩いているうちに、ふと気づくと泡遊びのメンバーの大半が、4〜5歳児へと入れ替わっていた。

 実は、遊びが始まった頃から、遠巻きに眺めているこの子たちが、私も気になってはいたのだが、はなぐみの子どもたちが、三々五々別の遊びに移っていくのを見定めながら、するするっと、遊びの中に潜り込んできていたのだった。

 かといって、多くの4〜5歳児が、ここに殺到するのかと言えば、ほとんどは園庭のあちこちで、それぞれの遊びに夢中になっている様子。自分たちも経験してきたこういったシンプルな感触遊びは、今では、少し物足りないという子も多いのかもしれない。

 しかし、たまたま、その機会を逃してきたのか、今がその育ちのタイミングなのか、どの年齢であっても、こうした遊びが必要な子どもたちはいるものだ。

 子どもたち(ヒト)の育ちには、順序性というものがある。今、やりたがっていることが、丁度その順番が訪れた育つべき部分。赤ちゃんが、やたらと物をいじりたがるのは、指先の機能が育とうとしている段階だから。ヒトは本当によくできている。

 しかし残念なことに、その時々の育ちの段階を一つ飛ばして先周りすることはできない。その時々に必要な遊びをせずに、「育つ」ことはできないのだ。だから、やり残してきてしまった遊びは、必ずどこかでやり直しておかねばならないのである。

 とはいえ、この年上の子の泡遊びは、観察力、洞察力、表現力もずっと巧みなので、ずっと豊かな見立てや探求心で、遊びをどんどん広げていく。

 結果的に、はなぐみの子どもたちの倍以上の時間、夢中になって取り組んでいた姿には、歳相応の逞しさを感じるのだ。

 反対に、はなぐみくらいの2〜3歳の頃は、ひとつ所にじっとなんて、そこそこの時間で十分だ。それより何より、気の赴くままブラブラと、あっちでは油を売り、こっちでは首を突っ込みと…そう、あの「フーテンの寅」のごとき生き方こそ、忘れてはならないのかもしれない。

(園からの便り「ひぐらし」2021年10月号より)

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