秋を暮らす

 少しすっきりしない天気の続く今は、晩秋を思わせる少しひんやりした空気が園庭を覆っている。とはいっても、ここまでの秋の季節は、爽やかな空気と陽射しが、様々な遊びへと子どもたちを急きたててきた。

 先日開催した「外の日」も、すきっと見事な青空が広がった。かつては、運動会などと呼ばれていたこの日も、毎年、少しずつ変容を重ねながら、ついにその冠も取れてしまった。

 園行事という営みに込められた意味合いを、ひと言で言い表すことはなかなか難しい。それも、子どもにとって、保護者にとって、保育者にとってと考え出すと、それぞれの期待が複雑に絡まり合って、その多面性の板挟みの中で、時に喘いでしまうこともある。

 戦いと言っては少し大袈裟かもしれないが、当園の園行事の歴史は、戸惑いや葛藤や手応えと共に、その意味を問い直す歩みでもあったような気がする。言い換えるとそれは、「子どものための行事とは」を考えることに他ならないのであるが、大人の期待であっても、それは子どもの生きる糧なのだから、単純に子どもだけを切り取って考える訳にはいかない。実は一筋縄ではいかない、簡単に割り切ることもできないことなのだ。

 また一方で、子どもも大人も、この園に関わる一堂が、時と場を共にするあの一瞬の高揚感は、やはり何物にも変え難い経験だ。それは、行事の持つ伝統だとか文化だとか、はたまたノスタルジーといった言葉では説明のつかない、今を一緒に生きる私たちだけが感じ合うことのできる、充足感なのではないだろうか。

 だから「外の日」は、まずみんなが集えたのなら、何をやったっていい。この園の中を漂う文化を、価値観を、みんなで感じ合っていく時間…少し格好をつけて言うと、こんな表現になるだろうか。

 そして今年度は、保護者を含めた大人たちを、自分たちのいつもの外遊びに誘うことになった。クラスごとに、どんな遊びをやろうかと、紆余曲折を経て子どもたちと相談していった結果が…あの日だったというわけだ。

 だるまさんが転んだ、爆弾ゲーム、しっぽ取り…そんな遊びの中で、ちょっと異質な遊びが、私の興味を引いた。

 みんなで持った大きなパラバルーンの幕を少したるませ、その中央にボールを置く。そして、息を合わせてその幕をピンと張ると、そのボールが天高く舞い上がるという遊び。

 すると普段の子どもたちだけでは数メートルほどだったものが、大人が加わったことで、園舎を超えんばかりの大飛翔となり、それに、どっと歓声が上がる。

 子どもたちだけではなし得なかったことができる、大人と一緒なら、もっとすごいことができる…外の日のゆくえが朧げながら垣間見えた…そんな気にもなった。 

 こうした園内の葛藤は、何気ない日常の中でも感じることがある。先日、うみぐみ(3歳児クラス)の、こんな保育日誌(10月14日「セロハンテープ」)が目に止まった。

 製作に勤しむ子どもたちの傍らで、床に落ちた新品同様の折り紙や、必要以上に消費されるテープなどが気になる保育者。もちろん乳幼児期には、素材と存分に戯れるための無駄も、大切なのは承知の上なのだが、たまたまセロハンテープが尽きてしまったところで、あえて「今日は予備がない」ことを伝えてみることにした。

 そして、代わりに糊が使えることや、別の素材もあることなどを伝えると、少し手間のかかる方法に、手を貸し合うことになったり、新しいアイデアを思い付いたり、別の素材の効果を発見したり…「これがないからできない」のではなく、「こうすればできる」という思考も大事にしたいという結びに、なるほどと納得をした。

 地球上の食糧や資源の枯渇は現実的な問題。ただ「ものを大切にする」という意味合いで止めてしまうと、「だから我慢していく」という、少し窮屈な道徳に押し込められてしまう気もする。何かを止めることで、今の生活の質を変えることも、現実的ではないのかもしれない。

 止めずに持続させていくには、代替案こそが重要だ。「我慢する」を超えて「これならできる」という柔らかな思考力も、これからの私たちに必要なものだ。

(園からの便り「ひぐらし」2022年10月号より)

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