実のなる木

 「もうすぐかな」「ジャムにしたら」と会話を弾ませながら、色づき始めた園庭のビワの実を見上げる子どもたち。

 実はその頃、遥か天空からそれを同じ思いで見つめる一団がいた。近隣のカラスや野鳥たちだ。今年もビワの実を挟んだ天地の睨み合いが、既に始まっていた。

 「これ何?」

 「これ、カラスが怖いんだって」

 そう言って取り出したキラキラと光るテープを枝にぶら下げながら、

 「これで、下の方は食べられないね。」

 と呟く保育者。すると、返ってきたその言葉にハッとするのだった。

 「これでさ、カラスの分とみんなの分に分けられたね。上はカラスの分だよってカラスもわかるよね。」

 鳥たちを「追い払う」のではなく、これは「分け合う」方法だと言うのだ。そして「カラスもきっと嬉しいって思うよね。」と続く言葉に、大切なことを教わったことを実感する保育者だった。(3歳児日誌 6月2日「カラスの分」より

 梅、山桃、ビワ、栗、柿、どんぐり、夏みかん、オリーブ、みかん、姫林檎、フェイジョア、ふさすぐり、やまぼうし、桃、レモン…園庭ではたくさんの「実のなる木」が、その枝を広げている。

 その半分ほどは、毎年、卒園する家庭がその記念樹として植えていってくれたもの。もう園庭の周辺ではこと足らず、畑脇のちょっとした斜面がその受け皿となって、果樹園への道を歩んでいる。

 採っては食う…この経験こそが、食育の原点だ。そしてあのビワの木は、食を「分かち合う」という代え難い経験までもたらしてくれた。しかも人と鳥と植物…種を超えてそれを体現する地球規模の食育だ。

 さて、日本の園庭の姿形は、学校の校庭を写し取るかのように、その歴史を歩んできた。学校のそれは体育の授業や集会、運動会などが想定された、固く締まった平坦に広がる敷地の周辺に、鉄棒や登り棒、ジャングルジムといった大型の固定遊具が配置されていく。

 時に「グラウンド」とも呼ばれるこういった構造は、本来なら乳幼児期の育ちには不釣り合いなもので、実はこの時期の彼らに必要なのは、本当の「お庭」だ。

 そしてそこに置かれるべきは、多様な「素材」。モノと出会わない限り、遊びは生まれないからだ。保育室に玩具が置かれていくように、園庭にあるべきオモチャ、それはなんと言っても自然物だ。

 石、砂、土、水、草、花、葉、虫…そしてその中核を担ってくれているのが、あの実のなる木々たちなのだ。

 そして子どもたちは、そういった素材をいじり倒し探究することを通して、形、色、音、匂い、味、感触、そして生命なるものへの感覚を身体の奥へと刻んでいく。そして、それらがどうつながって、この世がどうやって出来上がっているのかを、段々とわかっていくのだ。

 そこへもうひとつ添えておきたい物、それが実は人工物だ。私はこういった素材を「ガラクタ」と呼んでいる。

 古タイヤ、ビールケース、木材、雨樋、バケツ、ジョウロ、シャベル、ホース、箒、ちりとり、虫アミ、虫カゴなど。生まれて間もない頃はまだ、自然物同様「モノ」のひとつに過ぎないが、やがてこれらを道具にして、自然の摂理やこの世の原理に「働きかけ、操り、利用する」ことの面白さに気づいていく。知的好奇心を満たしていくわけだ。

 そしてモノたちと戯れていく中で、ヒトと関わる楽しさも知っていくと、やがてはそんなガラクタを使って、仲間と一緒に共通のミッションに挑むまでになっていく。

 そんな数年間に渡る園庭活動の軌跡は、まるでこれまでの人類が辿ってきた進化のプロセスをなぞるかのようだ。

 それを動かしていく、見事な舞台装置…それが園庭だ。

(園からの便り「ひぐらし」2025年6月号より)

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