祭りのあと

 「すごい進化ですね〜。」

 数年ぶりに顔を合わせた卒園家庭の母親から声がかかった。彼女が経験した園のお祭りは、もう10年以上も前になるだろうか。当の卒園児は、彼女の隣にはいない。今の仲間たちとの生活に夢中で、しばらくはこんな場所に立ち戻ってはこないだろう。

 「あのお祭りが、こんな風になってしまいました。」

 園庭中央のやぐら、そこから広がる提灯に火が灯る頃、それに誘われるように浴衣姿の子どもたちが三々五々、園に集まってくる…そんな風景を思い出しながら、感慨深げにそう答えるのだった。

 そうした少し捨て難い郷愁も抱きなら、あの酷暑の夏を避けるべく、意を決して大きく秋へと移動した先日の「せいびまつり」。ただそれは、ちょっとした新たな挑戦でもあった。

 夕涼みという言葉があるように、かつては、少し心地よくなってくる夏の夕刻だから、そこに祭りの文化が根付いていった。当園も長い間、夜店が並び浴衣姿も混じるあの夏祭りをイメージして開催してきたものだから、さて、それを秋に、そして日中に移した時、何を手がかりにという戸惑いもあった。

 それは子どもたちも同じで、夏祭りではない初めてまつりに、日々の遊びや活動がそことどう繋がっていくべきなのかを、まだ手探りしているようにも見えた。

 そしてこの祭りには、在園児家庭や地域家庭の交流という目的の他に、もうひとつの意味がある。それは、どこからか、この日のことを伝え聞いた卒園児たちの里帰りを迎え入れる、そんな日にもなっていること。夏の開催が難しいからといって、そうした場所を簡単には失いたくない…そんな思いもあった。

 実は今年の春の頃、地域のみなさんと音楽を通じた交流を楽しむ「音の日」の開催が、多くの方のエントリーでプログラムも出来上がっていたにかかわらず、悪天候によって中止になってしまっていた。

 そこで持ち上がったのが、その「音の日」と「せいびまつり」を、うまく融合できないかというアイデアだった。

 また、子育てひろば「いずみ」では、世代を越え多種多様な人々の交流が広がっていて、そこに関わっている地域の皆さんも巻き込んで一緒に楽しめないかと思いついたのが、飲食を中心とした地域の方々によるブースの出店だった。

 気持ちよく晴れ渡った芝生の園庭。演奏者たちを囲むように遊びのコーナーを広げ、脇の駐車場には飲食のブース…さながら、どこぞの野外フェス…そんな、新しいせいびまつりの姿が、傾く秋の日差しと重なってか少し眩しく感じた。

 年々厳しさを増していく猛暑、そしてあのコロナ禍を潜りながら形を変えてきた園の祭り。

 新しい形に辿り着くというよりも、想像以上のスピードで変わっていく地球や社会環境の変化を追いかけ、これからの役割を探し求めながら、当分の間、その模索は続いていきそうだ。

 先日、こんな2歳児クラスの保育日誌が目に止まった。

 落ち葉など秋の自然物に親しもうと、それに貼って遊べるよう目玉を模したシールを準備する。そして少し分別臭く、玩具などみんで使う公共物には貼らないよう伝えたという担任。

 園庭に出ると楽しそうに次々と葉っぱを拾っては目玉を付け、それを見せ合っていく様子に耳を傾けてみると、「これが鼻だよ!」「これは耳なんだよ!」と、なんと、場所に応じて鼻や耳にして遊んでいる。さらには、葉を半分に折ると、下の方に目玉シールを2つ貼って「車」。

 秋探しではなく、純粋に見立てや想像の世界を楽しむ姿に驚くのだった。

 そこですぐに、「自由にシールを貼ろう」と遊びの方向性を変える保育者。すると、園庭中を駆け回りシールを貼っていく。気づけば、芝生の細い草に目玉シールを貼る者、干してあったどんぐりの絵に貼る者、砂場裏のコンクリートの塀に貼る者、さらには、シールをペンで茶色く塗り、「ドーナツ屋さんです!」とおままごとを始める者まで。その発想力に圧倒されるのだった。

 まずは子どもの姿を捉えながら、そこに保育者の思いも添えていく。主体性を大事にするとはそういうことではないかと振り返った保育者だった(11月18日「子ども思い、保育者の思い」)

 子どもの発想は、いつも大人の斜め上をゆく。子どもの思いと保育者の願いのギャップ…ここを味わい見つめていくことが保育の醍醐味であり、保育者の学びにもなっていく。

 大事なことは、そのギャップに柔軟にそして大胆に応じていく、その思考力と行動力だ。

(園からの便り「ひぐらし」2025年11月号より)

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