審判の時

 とうに、せいびまつりも終えたというのに、「踊りたい!」というリクエストにあの日の曲を流し始めると、年齢を問わず、いつの間にか子どもたちが集まってくる。音の力はすごい…と保育者。

 その日は、そんな日頃のダンスを子育てひろば「いずみ」のランランフェスタで披露する日。副園長から、そんなお誘いがあったからだ。

 前日の夕方も、「舞台作ったから音楽かけて!」とその準備に余念がなく、当日の朝も「いつ行くの?」という子に、「一緒に行く人を誘ってきて!」と声を掛けると、集まりに集まったのは総勢23名。

 そして向かった「いずみ」には、想像以上のお客さんが。さすがに普段よりも動きが小さく、少し緊張気味のメンバーだったが、2曲目になる頃にはそれもだいぶほぐれてきたようで、踊りにの世界に入り込んでいく。

 とはいえ、中にはまだ友だちが踊る横で手拍子を打ったり、拍手を贈ったりという者だっている。

 地域の人たちも一緒になって体を揺らす中、踊ったのかという事よりも、そんな自分なり参加の形を探す子どもたちの姿に、感動した保育者だった(12月17日「ランランフェスタ」より)

 なんせ20人を超えるメンバー。その感受性だってそれぞれだ。そんな一人ひとりの挑戦する姿を認め、「あの場にいた皆で踊りきった」…敢えてそう表現した書き手の思いに、思わず共感してしまう。

 今年度、数名の職員と「子ども理解」をテーマにした連続講座を受講しているのだが、前回の講義に登場したのが、「ギリギリアウト」という話だった。

 時折耳にする「ギリギリセーフ」という言い回しには、「なんとか事なきを得たね」という少し安堵を込めた語感が漂うが、「ギリギリアウト」にそれはない。だって、それはアウトなのだから。強いてそこにあるものと言えば、それは苦笑いくらいだろうか。

 とはいえ、ルールはわかっているし、はなからそれを無視しようというわけでもなく、思いが溢れて、勢い余って、面白さを堪えきれなくて…そんな心情が、ギリギリという表現に込められている。

 ギリギリアウト…子どものそんな姿を認めていく寛容さが、高揚感、感性、挑戦心、自己肯定感を引き上げていく。そして何よりも、期待感と手応えを伴って面白がって生きる子どもたちの今この瞬間を、大人の道徳やルールなんてもので、むやみに邪魔しないこと…ギリギリアウトとはそういうことなのかなと、思いを巡らせながら講師の話を聞いていた。

 この講座は毎回、受講者から寄せられた前回の感想の中からいくつかを講師が選んで、前回の内容を振り返ることから始まっていく。

 そして、このギリギリアウトの翌回の講義でも、ある受講者の感想に添えられていたエピソードも紹介された。

 夏のテラスのキッチンで、子どもたちと畑で取れた野菜を洗っていた時、偶然、蛇口にナスがくっつくと水が勢いよく飛び散ることに気づいたRくん。そのうちに、面白がってわざとやるように。それに気付いたJくんも、同じように水を飛ばす。「水浸しになるからやめてよ。」と言うと、「わざとじゃないよ。」「そうだよ、野菜洗ってるだけだもん」と2人。私もわざと野菜を蛇口に押し付け、2人に水を飛ばし、「わざとじゃないよ、野菜洗ってるだけ」と言うと、2人も負けじと応戦してくる。

 結果、3人でびしょ濡れのテラスを雑巾で拭く羽目に。「ね、ふざけると、こういう面倒臭いこともセットになるんですよ。」と言うと、「でも、暑かったからちょうどいいじゃん。」「気持ちよかったよね。」と言いながら、雑巾掛けをする2人の顔は汗だくで、なんだか笑ってしまった。

 テラスのキッチン?…うちと似た風変わりな園もあるものだなと、少しユーモアも漂うこの話を、面白がりながら聞いていた私。

 すると翌日。当園のひとりから、「あれ、うちの園です。」とどこか嬉しげに報告が…やっぱり。

 人前で舞ってみせることをセーフとするのなら、いつかは踊りたいと願いながら傍らで手を打つ者たちは、ギリギリアウトなのだろうか。

 大人たちのこしらえ枠組みなど、舌を出しながらひょいと乗り越えていく者たちへ、エールを送る。口の端に、ちょっと苦笑いを浮かべながら。

(園からの便り「ひぐらし」2025年12月号より)

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