ホントはウソ

 皆が寝静まった頃、グッと冷え込んだ空気がこの街の空をすっと撫でていく。翌朝、冷たく透き通った宝石がそこここに取り残されているのが、その痕跡だ。

 そんな真冬の宝物の正体を知ろうと、夢中になって心を揺らすことが、真冬の子どもたちの日課になっている。

 お散歩へ出かけようと、園庭で子どもたちに声かける2歳児の担任の元へ、クラスの3人が、玄関前のメダカが暮らす大鉢の中に、葉っぱや消毒液を投じている…との一報が届く。

 慌てて3人の元へと駆けつけた担任が、メダカが困っていることを伝えると、「魚は葉っぱを食べるから」とのこと。

 そこで、「メダカは体が小さいから」と伝えると、「じゃあ、お池の魚に葉っぱをあげたい」と。その言葉に、いつも散歩先の池で「魚に、ご飯をあげる。」と、拾ったどんぐりや葉っぱを投げ入れていたことを思い出す。この鉢にも、良かれと思ってそうしていたのだ。まずはその思いを聞き取るべきだったと反省しながら、ならばと行き先はその池へと決まる。

 幸いにも氷が張っていない池に、拾ったどんぐりや葉っぱを投げ入れても、その日ばかりは魚を見ることはできなかった。すると一人の男児から、思わぬ言葉がかかる。

 「魚って何を食べるの?」  

 これまで、本当に葉っぱやどんぐりを食べるのかを一緒に考えたことがなかったなと、再び反省を重ねながら帰途に着いた保育者だった。(1月19日「何食べるの?」

 ごっこ遊びの盛んな2歳児の現実と見立ての境界は、実に曖昧だ。

 諌めたつもりのイタズラが、実は本気だったことに気づき反省する保育者。しかしその時のやり取りが、その後の池遊びの時、子どもの思考を大きく揺さぶることになるのだ…実は、葉っぱは食べないのではないのか…と。

 子どもとの関わりでは、何が失敗で何が成功なのか…それは、それほど単純な話ではないことがよくわかる実践だ。

 寒いとはいえ、天気が安定する東京の冬は、あの酷暑のフラストレーションを発散するかの如く、外遊びが盛んだ。

 集団遊びに加え、造形遊びも戸外へと触手を伸ばすのが当園風。

 その日も、造形作家のこいっちゃんが、「これを重ねて高くするぞ」と、たくさんの木の端材をテーブルに広げる。

 広い面にボンドをツンツンと付けて重ねることなどそのコツを伝えている最中も、手を伸ばさんばかりに、興味津々な3歳児たちの後ろには、「やりたくない」と呟く者もいる。そこには上手くいかないのではという不安感もあるはずで、慎重であることは決して悪いことでもないなと、思いを巡らす担任。

 「何を作ってもいい」のハードルは意外に高い。タワー作りとあえて限定するのがコツ。「行為の積み重ね」が、次の面白さにつながっていく…そんなこいっちゃんの説明を聴きながら、面白いことにたくさん出会わせたいと気持ちを新たにする保育者。

 やりたくないと言っていたのに、最後は一番夢中になっていたSくんに、「『なんで最初はやりたくなかったの?』と聞いたら、『あれはね、本当は嘘だったんだよ。』って答えが返ってきて」と笑うこいっちゃん。「やりたくないと言っていた自分も認めてあげたいし、できた自分も肯定的に受け止めたい。そんなSくんの気持ちが伝わってきますね。」、そう笑いながら話した2人だった(1月27日「やりたくないは嘘」)。

 「嘘だった」という表現に、誰しもが「子どもらしさ」「微笑ましさ」までは感じるのだが、そう表現した心情の本質を見事に言語化してみせたこいっちゃん。

 言葉にできないものを表現するのがアートなのだとしたら、造形作家である彼は、非言語の世界で仕事をしてきた人。

 しかしこうして、保育の世界の私たちと仕事をするようになって、異業種との意思疎通には、ずっと「言葉」が大事になることを、きっと肌身を通して感じてきたと思うのだ。だから、どんな言葉で伝えようかと、いつも考えている人なのだ。

 そして、言葉にすることで、さらに自身の思考も整理されていくので、こいっちゃんの造形遊びは、楽しくて、美しいのだけれど、どこか、しっかりと構造化されている…そんな印象も持つのだ。

 そうした日々の「子どもらしい物言い」を耳にしては、そこに込められた思いに聞き入っているのだけれど、それをしっかりと言葉にせずに、日常を送りがちだ。

 心に湧き上がった感覚を言葉で表現できた瞬間に、ようやく本当に「わかった」という実感が持てるような気がする。

 言葉と思考はつながっている…子どもでも大人でも、それは何も変わらないことなのかもしれない。

(園からの便り「ひぐらし」2026年1月号より)

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