悩み多き者たちへ

先日、恒例の「中の日」を終えた。園内の各所で各クラスの親子遊びが同時に進むので、私の挨拶は事前のメッセージ配信。いつもその中で、「プロセスが本番、当日はおまけ」と少し大袈裟に書くのだが、その歩みは、実は保育者も同じだ。
当日に向け、迷路遊びの準備に勤しむしろぐみ(4・5歳児)の面々。その迷路のゴールには、親子が互いに向けて作った宝物が待っている。
折り紙などを使って、みんなが夢中になって宝物を作る中、「俺は作らない」と意思の堅い男児。すると別の男児から「(パパとママ)悲しいと思うよ」と聞くと「え…」考え込んだ後、「でも、何がいいのか…」と呟く彼に、「一緒に考えるよ」と友が寄り添う。
そんな2人に任せてみようと一旦離れた保育者が戻ってみると、分担をして作業を進める2人。すかさず、近くにいた女児から「(手伝ってもらったら)意味ないよ」と声がかかり、困惑する2人。
早く形にしたいという本人の思い、それを手伝おうとする友だちの思い、でもそれでは納得のいかない女児…どの思いもわかるし、誰も間違ってはいない。
そして迷った挙句に保育者が選んだのは、「どんなプレゼントなら、ママ嬉しいかな?」と問いかける言葉だった(2月6日「宝物の意味」)。
男児も、あの女児の言葉を聞いた後だ。「僕の力で作る」という大人が期待する答えに誘導しかねないこの問いかけを、「この関わりが、正解かはわからない」と、日誌の最後でそれを率直に振り返った保育者。それでも会の当日、宝物を手にした母の表情や言葉を知った時に湧き上がるであろう彼の感情が、ひとつの経験となればと願う保育者だった。
そしてつい先日、3〜5歳が集まって、子どもたちの発案で、退職する保育者の一足早い「卒園式」が開かれた。それが終わった後、こいっちゃんとの造形遊びでも、お別れする保育者へのメッセージカードやプレゼント作りが始まる。
すると、ダンボールを使って剣作りに勤しむ別の一団が、保育者の目に止まる。毎日のように武器作り励む者たちに「頭を悩ます」と、ここでも率直にその思いを記す別の若手保育者。
しかしこの日は少し違っていることに、段々と気づいていく。男児たちは少し興奮気味に、「こいっちゃんに教えてもらった」と、完成させた剣を見せにやって来たのだ。
そして、こいっちゃんから聞く、剣には「つば」が必要な理由…それに真剣な表情で耳を傾けながら、「どうやったら(つばが)付くかな?」「これじゃ弱いかも」と試行錯誤を続けているのだ。
保育者が呼ばれることも減り、自分で考えて試し、友だちと相談しながら造形遊びを進めていく姿に、この1年間の成長を感じた保育者だった(2月20日「はがはがの卒園式」)。
かつてはチャンバラと言われたこうした「戦いごっこ」。来る日も来る日も取り憑かれたように夢中になる姿に、いつの時代も少し、大人の心はざわついてしまう。
ただ、少し目を凝らしてみれば、そういった姿の中にだって、心震わせる新たな出会いの芽は潜んでいる。むしろ夢中になる中で出会うからこそ、その興奮も倍増するのかもしれない。
そんな子どもたちを洞察する眼差しを、2歳の日誌でも見かける。
「端っこを歩こうね」、そう声をかけても、なぜか歩道の中央へとズレていく、お散歩の隊列。どうしてだろうと、ずっと不思議に感じていた保育者が、家族旅行である発見をする。それは、小1の我が子の何気ない言葉だった。
「綺麗な景色が見たいのに、私には(前を歩く)お姉ちゃんのリュックしか見えない。」
そこで改めてお散歩を観察してみると、中央へと寄っていく子の中には、「ねぇねぇ、見て!」と景色に目を向けている者が多いことに気づく。安全やマナーの上では一見困った行動も、それも「あれは何だろう」と心を揺らした結果だと思うと、むしろとても大切な事のように思えてくる保育者。
公園にある動物型の遊具を見て「リスさんかな?」と呟くと、「馬だと思う。リスは小さいよ。」との返事。確かに子どもたちにはずっと大きく見えるはず。
そんな自分の背丈ほどの動物たちに跨ろうと果敢に挑戦していく姿に、いつも以上に感心する保育者だった(1月26日「子どもの視線」)。
保育に正解はない…それでも今この瞬間、何かを選び取って伝えねばならないのだとしたら、その言葉は、年月と共に刷新されていく…それこそが、保育者の育ちの証なのかもしれない。
逡巡することが、正しさを超える。
(園からの便り「ひぐらし」2026年2月号より)




