庭が明ける
芝の種まきをした園庭の養生期間が終わり、その上を横断させていた橋や周囲の囲いを解体した。
不順な天候が続いた先月も、なぜか種まきをした下旬から、秋晴れの毎日が続いた。そしてひと月ばかり、みんなが滑り台や砂場といった園庭周辺の遊びで我慢してくれたおかげで、見事な冬芝が生え揃った。そして、週明けのオープンに向け、その一面の緑の絨毯を、一気に芝刈り機で刈り込んでいくのは爽快だ。
しかし、さすがにこの緑も、オープンと同時に踏圧に負け、もう一段冷え込む季節を迎えると茶色く枯れていく。ところが、春の声を聞く3月になるとまた息を吹き返し、緑色の芽で子どもたちの足裏を押し返していくのだから、生命の力というものはすごい。
つまりこの種まきと養生は、今ではなく、実は来春のための作業なのだ。この時間感覚が、いつも忙しなく過ごす私に、本来あるべき営みのペースというものを、あらためて教えてくれる。
大きな重機も入る芝の種まきは、専門業者にお願いをしているのだが、2週間ほど前、発育状況の確認のため、そのスタッフが再来園をした。
そして開口一番、養生中の園庭を眺めながら、「せいびさんらしい養生ですねぇ。」と一言。養生中の芝生の囲い方にも、その園らしさが出るのだそうだ。
うちの場合は、滑り台のある築山に渡れるように、ウマ(大工仕事に使う作業台の足)に板を渡して橋をかける。そして、養生の囲いには、園庭で遊んでいる古タイヤを集めて積み上げたり、これまた遊び道具のウマや、園庭裏で使う衝立をかき集めてくる。そして、それでも足りない部分には、破れた虫取り網から取り外した竹棒を、何本も横に流していくのだ。
しっかりとロープを張る訳でもなく、普段園庭にあるもので、スカスカでゆる〜い感じに囲うのは、侵入を「止める」というよりも、それを「知らせる」ため。子ども自身に考えてもらわない限り、力づくで止めることなどできないからだ。
そういった材料はシュロ縄で結ぶ。園芸でよく使うヤシ科の植物で編んだこの縄は、適度な摩擦と締まり具合が、本当に都合がいい。そして、放っておいても、やがては朽ちて土に返る。
古タイヤは、ちょっと規則性を考えながら積んでみるのも楽しい。同じものが大量に、整然と並んでいるだけで、心揺さぶられるのはなぜだろう。
竹棒、ウマ、衝立、シュロ縄といった、いわゆる「民具」のそこに漂うのも、やはりある種の美しさだ。その素材の性質を知り、受け入れ、自分たちが求める機能を必要最小限の構造と原理を使って引き出している。そこには、人知と自然物に対する敬意のような思いも感じる。求めたつもりもないままに、自然に立ち昇ってしまう審美性というものもあるのだ。
ちょうどこの芝刈りの前日、今年度で卒園する5歳児クラスの保護者の方お二人から、その記念誌の制作のためにとインタビューを受けた。
なかなかに新鮮な体験であったのだが、その中で、「子どもたちに何かメッセージを」といった投げかけがあった。私は咄嗟に、「どんな人に育ってほしいか」という問いに置き換えながら考えてみたのだが、自分でも不思議なくらい、一向に何も浮かんでこないのだ。
それでも、最後に「こんな生き方を」という言葉に変えてその思いを伝えてみたものの、インタビュー後も、「どんな人」がパッと浮かばない自分に、何か釈然としないものを感じていた。というのは、思いのようなものはしっかりとあるのだけれど、なぜかそれが具体的な映像となって見えてこないのである。
そして、芝刈り機を押していたその日も、頭の片隅からずっとそのモヤモヤ消えなかったのであるが、何度目かの芝刈り機のエンジンをかけた瞬間に、ふと、その理由がわかった気がした。その思いとは、ただただ、
「あなたらしい人であってほしい」
そんな願いであることに気づいたのだ。具体的な姿が見えないわけだ。
さらにインタビューの中で、「園長先生って、ジャニーさんみたい」という評もいただいた。一瞬その真意を掴みかね、あのジャニーズ事務所の故社長を想像しながら、私も年をとったということかなと思っていると、「芝刈りをする作業服姿が、業者の人かと」と言葉が続く。すぐに、新人タレントの傍では、清掃員の振りをしていたというジャニー氏の逸話を思い出して笑ってしまった。
エッセンシャルな営みの中からなら、見えることもある。その恵みを大切にしていきたい。
(園からの便り「ひぐらし」2022年11月号より)