営みは境を越えて

 その日は、珍しくのんびりとした帰路であった。たいていの旅は、あれこれと立ち寄る場所を詰め込んでしまうか、渋滞を避けたくて、また今度寄ればいいと決め込んで、ただただ家路を急いでしまう。そして、その前を通るたびに少し心惹かれながらも、「また今度」を幾度も重ねてしまうものだ。

 さっそく「前からのこの建物、気になってるんだよね。」と、立ち寄ったコンビニの向かいに建つ、なかなか凝った造りの白亜の殿堂を指差す友人。その駐車場を示す「伊豆の長八美術館」と書かれた道沿いの案内板を読んでも、伊豆の名産品を想像するくらいで、何が展示されているのかさっぱり見当がつかない。

 彼の「また今度」という言葉を聞く前に、「じゃあ行ってみよう」と間髪を入れずに声を上げたのがもう一人の友人。自分だけなら選ばない道を歩むこともある…これが仲間と出かける面白さだ。

 建物に近づくにつれ、その不思議なデザインと眩しいくらいの白壁に、少し心揺さぶられるものの、「ああ、なるほど」と展示品を予想させる手がかりは、まだ一向に現れない。唯一、天皇皇后御来館記念と刻まれた石碑の他に「鏝絵」という文字の入った看板を見つけ、「鏝」を指差し「これ、なんて読むの?」と周囲に聞けども、皆、首を横に振るばかり。

 時代劇でよく見かける斜め格子の「なまこ壁」に挟まれた通路をくぐると、いよいよ入館。そして、そのエントランスの空間をぐるりと見渡した時、壁の説明書きの一つに、「左官」という文字を見つける。そこでようやく、あの漢字の読みの見当がつく…こて…それを使って漆喰で描くから「鏝絵(こてえ)」。だから、建物は白亜の漆喰、そして入口へと続く通路はなまこ壁…全てがつながった。

 そして、この町の左官職人であった入江長八なる人物が、鏝と漆喰で絵を描き、明治の初期に独特の芸術を完成させたことを、私たちは知ったのだった。

 平面に盛られた漆喰で、半立体に造形された初めて見る緻密な技法に驚きながら、職人と芸術家の境界とは一体何なのだろうかと考えながら館内を巡る。世では日用品の造作が極まると、それは工芸品と呼ばれるが、左官という生活を支える営みが、こうして鏝絵として昇華したこともそれと似ている。

 日常の道具や営みが、美術や芸術という境界線を超えていくように見える瞬間に、私はなぜか、なんとも言えない文化の豊かさを感じるのだ。

 実は子どもの造形活動も、常にそういった境界線を漂っているからこそ、魅力的に映るのかもしれない。

 例えば、子どもの描画はまず、指や鉛筆や筆などを通して伝わってくる、描画素材が持つ独特の感触を楽しんでいく。時に、紙の上で滲んだり、色が混ざり合ったり、絵の具が紙の端から水滴となって滴り落ちていく様子すら味わっている。

 また、先に構図が決まっている訳でもなく、自分が描いた描線や形に刺激を受け、何かを呟きながら、まるで物語を紡ぐようにまた画面を広げていき、時には鉛筆で紙面を叩く音にさえ興奮する。

 造形遊びが、感覚遊び、科学遊び、ごっこ遊び、音遊びへとその境界を超えていくのが子どもの営みというものなのだ。

 先日、こんな園内の保育記録を見かけた。

 毎年、近隣のスーパーが主催する児童画コンクールなるものへのお誘いを受ける。希望者にはその用紙を配って、いっとき、描画に勤しむのであるが、いつもと違うのは、絵のタイトルを書き込む欄があること。それを子どもたちに伝えると、「えぇ〜」と悩ましげな声が上がった。

 そこで、それぞれが描いた作品を挟んで、「これは何?」と問いかけていくと、「これはね、キャンディーだよ。それでこれがハートに手と足が生えたハート人間!歩いていたら空からキャンディーが降ってきたの!」と、実はそこに、それぞれの物語が潜んでいたことを知るうちに、それにたった一言のタイトルをつけることが、さらに難しくなってしまう。

 本来なら言葉に表せないから「描く」わけなのだけれど、逆に、そこに添える言葉を一緒に考える会話を通して、抽象的な模様や色彩にさえ、その意味や魅力を再発見していく保育者なのだった。(5歳 8月31日「題名って難しい」)

 作品作りをするのではなく、ただただ、五感を通して、思考の中を漂うことを通してその作業プロセス全体を味わうのが子どもの造形。だからそれが、営みとしての奥行きと豊かさを持つのだ。そこにタイトルをつけろなんて、大人とは本当に野暮で厄介な存在だ。

 実は、都内の保育関係の会合で、東京左官会館という貸し会議室を利用することがある。初めてそこを訪れた時、自社ビルまで持つ左官業組合の地力に驚いたのを覚えている。当時はまだ、美術界にまで、その影響が及んでいることなど知る由もなかったが。

 この左官業組合の援護のもと、全国の左官職人が集まり、技の粋を結集したのが、あの美術館の建築なのだという。

(園からの便り「ひぐらし」2023年9月号より)

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