緑の風を吸いながら
もう越えたはずの年度替わりが、5月にもう一度やってくる。暦のいたずらか、ようやく園生活にも慣れようとしたその時、大型連休に突入するからだ。
少し後戻りしたかにも見えるGW明けを、そっと保育者に支えられながら、また園生活を取り戻していく様子が、日誌を通して伝わってくる。
連休明けの2歳児の保育室に、給食室から玉ねぎの皮むきのお仕事が届く。慣れた手つきではりきって手を伸ばす数名を、少し離れた場所から見つめるひとりの男児。玉ねぎを手渡すも「ううん」と首を横に振る。
素直に思いを伝えてくれたことにホッとしながら、気になる皮むきに彼なりに関わることはできないかと思いを巡らしていた時、保育者の頭に「嗅覚」という言葉が浮かぶ。
さっそくむかれた皮を手に「玉ねぎの匂いがする!」と保育者が声を上げると、驚いたように一斉に自分の手元の皮を鼻に寄せる子どもたち。いい匂いでもないはずなのに、「りんごの匂いがする」などそれぞれの感想に混じって、「くさっ!」と笑い声を上げるかの男児。
そこですかさずその目の前に、もう一度玉ねぎを置いてみると、今度は夢中になってその皮をむき始めたのだった。そしてさらに、むいたその皮をビニール袋に入れて持たせると、自分がむいたことを得意げに報告しながら、周囲にその匂いを嗅がせて周る。
すると、洗濯物の匂い、園庭の葉っぱや花の匂いを嗅いだり、給食の果物の皮を袋に入れてみたりと、どんどんと「匂い」の遊びがクラスに広がっていったのだという(2歳児 5月7日「くんくんくん」より)。
一人の背中を押すために考えたちょっとしたアイデアが、やがてみんなの遊びへと昇華した瞬間。ちょっとしたひとりの躓きが、実は周囲の仲間たちへの大いなる貢献へと繋がっているものなのだ。
同じ日の3歳児の部屋で、朝、母親と分かれて涙が止まらない子を抱いている保育者。その傍らに寄り添うように腰をおろし、絵本を開くもう一人の女児。彼女も、今朝は保護者と離れ難かった一人。
その絵本を介した彼女と保育者のやり取りに気を取られるうちに、腕の中にいた子にもだんだんと笑顔が戻ってくると、ついには保育者の膝から降りて、別の遊びへと向かっていったのだそうだ。
そこから日誌は、以前にその保育者が視聴した「アタッチメント(愛着形成)」を取り上げたテレビ番組の話題へと移っていく(これは以前、私が保護者のみなさんにも視聴をお誘いした番組)。
「子どもは、安心感に浸った後は離れ、不安に思った時にまた戻るということを繰り返していく。むやみに介入もせず、子どもが求めて来た時には確実に応じる基地になること」とアタッチメントの原理を紹介しながら、「今日、自分はそんな基地になれたのかもしれない」と、充実感と共に日誌の中で振り返っている(3歳児 5月7日「基地」より)。
現実の保育を通した経験と、その外側で学んだ知見を結びつけながら、保育という営みの意味を自分なりに深めていく…これも、日誌を書いていくことの価値なのかもしれない。
4月の末、親父の会の面々、そして地域の畑愛好家?の方々が、今年も子どもたちの野菜畑を耕してくれた。そして5月に入り、そこへ苗植えをする様子もまた日誌に記されていた。
みんなで苗を買った駅前の花屋さんとの会話を思い出しながら、苗植えが始まる。「花屋さんが、苗をどうぞってしてくれたから、みんなで野菜が育てられるね。」という子どもの気づきが嬉しくて、すぐに「苗も畑も、色々な人がここまで準備してくれたんだよ。」と返していく保育者。
すると、「そっか。みんながやってくれたんだ。」と、いつもの役割とは反対に、子どもたちの方が保育者の言葉に共感してくれたように感じたという。大人の感受性を通して、自身の感性を磨いていく…これが大人と言葉を交わしていくことの意味なのではと考えた保育者だった(4・5歳児 5月2日「お花屋さんへ」より)。
自分の言葉や思いを大人に共感してもらいながら、自身の存在に自信を深めていくのが子ども。しかしその一方で、自分が信頼を寄せる大人の言葉や考えに、疑うことなく無条件に共感しながら、己の感性を鍛えていることに気づくエピソードだ。
傍らにいる大人の生き様を深く吸い込み、それを四肢の先まで行き渡らせながら、心を、感性を太らせていく…それが、子どもという存在だ。
(園からの便り「ひぐらし」2024年5月号より)