学びのはじまり
園の玄関の引き戸を開けると、その正面に、「よろしくの棚」と書かれた野菜売り場の陳列棚にも似た無骨な手作りの台が目に留まる。
これは、子どもたちにお願いしたいちょっとした仕事を置いておくための棚。いつも身近にいる担任たちなら、その都度声を掛けてしまえば良いのだが、園を出たり入ったりしている私のような者は、「これ、よろしくね」と言って、ヒョイと頼み仕事をそこに入れておくのだ。
みんなで送る園生活なのだから、必要な仕事は本来、子どもたちも含めたみんなで担っていくべきもの…そんな思いをこの棚に込めているのだが、なぜか普段は落とし物入れとして重宝されていることも否めない。棚の中に溜まった持ち主不明の帽子や靴下や製作物などを拾い集めながら、私に向けられた「よろしくね」というメッセージを噛みしめるのだ。
それを取り出した代わりに毎月そこに入れるのが、近隣の小学校と幼稚園に届けている本紙「ひぐらし」を収めた封筒。その横に「てがみを、とどけてください。」とメッセージカードを添えておくと、それを見かけた子どもたちがお散歩のついでなどに、その宛先へと届けてくれる。 こんなささやかな学校や幼稚園との日常的な繋がりの傍らで、ここ数年、国の教育制度の中でも、小学校との連携や接続に関する議論や取り組みが、ずっと活発になってきている。
「算数で世界第○位に」といった報道を耳することがある。これは、経済協力を目的とした国際機関(OECD)の加盟国で一律に実施されている学力調査の結果だ。実はその組織には幼児教育の部門もあって、他の先進国より少し遅れてようやく日本が参画をすることになったのが、今から三十数年前のこと。
そしてこの頃から世界中の幼児教育に関する情報が続々と日本に入ってくるようになる。そして、乳幼児期の育ちが自国の将来を左右する重要なファクターであることに気づいた先進各国が、既に国策として取り組んでいたことに驚くことになるのだ。当時の保育関係のシンポジウムの壇上で、「先頭を走っていると思っていたら、実は周回遅れだった。」と嘆いた有識者の言葉を今でも覚えている。
そしてその辺りから、小学校と幼児教育・保育の内容の連続性や整合性がさらに意識されるようになり、乳幼児期が学童期の学びに合わせていくのではなく、低学年の上に高学年の学びが積み上げられていくように、乳幼児期の上に学童期の学びが積み上がるよう、それを一体的に捉えていくという考え方で、教育や保育の内容や仕組みの整備が進められて来たという経緯があるのだ。
そして今、就学前の5歳児と就学後の1年生の二年間の「架け橋期」に着目し、国全体で「幼保小の架け橋プログラム」という取り組みが始まったところ。プログラムと言っても、全国一律に同じカリキュラムを実践するのではない。それぞれの地域の実情に応じて、その地域の教育・保育施設と小学校が共に考え合い協力をしながら、一緒に「主体的・対話的で深い学び」の実現を目指していくというプロセス全体をプログラムと呼ぶ。
ただ、それは言うほど簡単なことではない。それは保育園、幼稚園、小学校…それぞれがその成り立ちを背負い、制度上の要請や社会の期待に揉まれながらこれまでを歩んできた歴史があるからだ。
子どもの個性や自主性を大事したい…そんな思いで遊びを子ども任せにし過ぎてはこなかったか。一方で、少しでも早い時期に物事をこなす力を付けたいと、「できるようになる」ことにこだわり、教え込み過ぎてはこなかったか。みんなに一様一律な行動や価値観を期待し、大人にとって都合の良い子を求め過ぎてはこなかったか。
それぞれの機関が自身の教育や保育活動を振り返り、一旦立場や事情を横に起き、語り合っていく必要もありそうだ。
そしてさらに東京都では、都内のこども園や保育園、幼稚園に対し、「とうきょう すくわくプログラム」なる取り組みを今年度からスタートさせた。
これは、各園で子どもがワクワクするような探究的な活動(遊び)を展開していこうという動き。「遊び」とはそもそも探究的なものなので、何を今さらとも思ってしまいそうなのだが、大事なのはその遊びを「深める」という視点だ。
遊びの様子を記録し、それを振り返り他者と共有して、その遊びが子どもにとってさらに魅力的なものとなるような働きかけや環境設定を、今以上に意識化していこうということなのだ。
そして、「これってなに?」と自ら試行錯誤する遊びの積み重ねが、学校生活の学ぶ意欲の土台となるのだという。
今、日本の教育は、乳幼児期をも取り込みながら、大きな曲がり角に差し掛かろうとしている。ここを曲がり切れるのかは、保護者、そして社会の理解にもかかっている。
「自分が変われば、世界が変わる」
少し前に観たドラマで若きヒロインが語った言葉…それを思い出すのだ。
(園からの便り「ひぐらし」2024年10月号より)