音の日びより
当園の子育てひろば「いずみ」のページ。そこに、ひっそり掛けられているカレンダーを、みなさんは覗いたことはあるだろうか(https://kodomo.tokyo/izumi/izumi_cal/)。
さくらんぼちゃんクラブ、ぶら散歩、うたの大お姉さん、ママアミーゴ、リコリコロミー…そのネーミングからは到底想像もつかない様々な活動が、そこには記されている。
これこそが、老若男女、多種多様な人々が訪れていることの証。子育て世代を囲わず、この地域の世代や立場を異にする者たちが一緒につながっていく…そんな場所を目指すのが、当園流だ。
そして、カレンダーの水曜の列、3週目に毎月書かれているのが、「ランランフェスタ」。そんな「いずみ」を行き交う者たちが、物や食や声をワイワイと交流させる、いわば「いずみ」がマルシェのように賑わう日なのだ。
時に、腕に覚えのある者が楽器を奏でれば、自然と周囲から歌声が湧き上がる…その和やかな雰囲気は、子どもたちと暮らす園生活が、まさにこの地域のどまん中で営まれていることを、実感させてくれる。
今は、こういった「いずみ」に集う人々が、在園児の保育に参加してくれるようになった。歌に演奏に踊りに絵本読みに野菜作りに、ごっこ遊びに使う布細工も作ってきてくれる。
反対に、子どもたちが作った物や楽しんでいる遊びやダンスを、フェスタで配布したり披露することも、今や日常となっている(これを、子どもたちの「地域デビュー」と呼んでいる)。
「いずみ」のほとりを行き交う地域の人々は、本当に多彩で、そして多才だ。それを何かの形で織り上げてみたい…「いずみ」を牽引してきた副園長が、そんな思いで温めてきた企画…それが先月末に開催した音楽祭、「音の日」なのだ。
「みんな、表現する場を求めている。」という副園長の実感は本当だった。募集をかけると、あれよあれよという間に、地域のパフォーマーたちが集まってくる。そこへ、当園の保育者楽団や在園児有志もエントリー。まさに、地域ごった煮の音楽会となっていった。
そして、もう一つ副園長がこだわったのが、園庭での開催。演者との垣根をなくし、会場にも出入り自由、気ままにシートを広げて、それは今やお馴染みの音楽フェス…といったところだろうか。
私もギターで参加した保育者有志の楽団。勤務のシフトがバラバラなので、就業後に合わせる時間が取れないのが問題だった。
どうするのかなと思っていたある日。昼食後の時間、就学に向け、午睡を取らなくなった5歳児たちが過ごす部屋に集合するメンバー。なんと、それぞれの遊びに勤しむ彼らの傍らで、合同練習を始めていたのだった。
時に一緒に歌ったり、何か叩いてリズムを取る子もいて、なるほど、大人が真剣に練習する姿を見ていくのもいいものだなと感心をする。子どもたちと共にする経験に、何一つ無駄なことはない…すべてがカリキュラムなのだ。
幸いなことに、当日は快晴。暑くもなく寒くもなくのフェス日和だった。シートを敷いたり、ベンチを引っ張ってきたり。テラスをステージにする演者もいれば、芝生に降りて奏でる者も。そしてその前で、一緒にステップを踏む者たちもいる。ゆるくて、軽やかで…心地がよい。
そんな様子を後方から眺めていた私の隣りに、たまたま立っていた一人の女性。かつて音楽教師だったのか、「これが音を楽しむってことですよね。私が昔、子どもたちに教えていたことって、一体なんだったのだろう。」と演奏に目を向けたまま、呟くように私に語りかけてきた。
それを聞きながら、私も考えていた。私たち保育界で繰り広げてきた発表会、お遊戯会といった、思わず肩に力の入りそうな内向きの会とは、一体何であったのかと。園外へと開かれたこの伸びやかな雰囲気を胸いっぱいに吸い込みながら、園行事というもの行く末のヒントが、ここにもあるように感じたのだった。
そしてつい先日、音の日にフラダンスを披露した園児有志たちは、お手製のプレゼントを手に、さっそく2回目の公演のため、ランランフェスタへと出かけていく。保育者がウクレレを奏で、副園長が歌い、子どもたちが踊る(12月18日「フラダンス〜ウルパラクア〜」より)。
後日、この音の日の写真を知人に紹介すると、「子どもを、一市民へと育む場所であることが伝わってくる」とその感想を語ってくれた。「文化を媒介に人がつながる」ことの意義と一緒に。
音の日が気付かせてくれた。園行事という殻に包まれていたもの…それは文化だったということを。
(園からの便り「ひぐらし」2024年12月号より)