秋の居場所

  「子どもたち、すごい体力ですね〜」と汗を拭きながらそうこぼしたのは、都外のずっと遠方から見学にみえた他園の保育者。子どもたちとしばらく園庭を駆け回っていたようだ。

 酷暑で外遊びもままならず、ようやく涼しくなったここで、そのウズウズが一気に爆発したかような毎日。園庭を舞う無数のトンボを追うように、秋の気配を求めて精力的に園外にも出かけていく。

 4〜5歳児が企画する「外の日」もまもなく。本来なら、もう少し外遊びを存分に味わいながら当日へと乗り込みたいところ。予想以上に残暑が長引いて、真夏の室内遊びが依然盛り上がったままというクラスもあって…右足を外に、左足は中に…そんな日にもなりそうだ。

 こうして一年全体の過ごし方も大きく揺さぶられるくらい、夏の酷暑の影響は思いの外大きい。

 そうした中でも、「園内散歩」と称してそれほど広くもない園内を、ぶらぶらと他クラスの玩具をいじりながら徘徊するツーリストたちもいて、これも園舎に巣籠もりをするからこその新たなる開放感。実は私たちが今、通年で目指そうとしているのがこれだ。これを密かに「どこでも居場所」と呼んでいる。

 そして最近の土曜日の日誌にも、そうした思いを込めた実践が少しずつ記録され始めている(9月20日「どこでも居場所」9月27日「年上の誇り」)。

 クラスの部屋と称して、知らず知らずのうちに「ここにいること」に決められて、大人たちもそれを当然の事ように思い込んでしまう。もちろん、安心感のある拠点となる場所は大事なのだが、そこで充足感を得るほどに、次はその外側に新たな開拓地を求めていくのも人間だ。

 大人たちがそうであるように、心地よい場所、好奇心が湧き立つ場所、憧れの場所、自分らしく過ごせる場所を選ぶ権利を子どもたちだって持っている。必要以上の身体的な拘束・束縛を受けないことが、人として尊厳が守られていくことの第一義的な条件だ。

 自立への道のりのまだ途上を生きる者たちと、それをどこまで広げていけるのか…一緒に追求してみたい…そんな思いを新たにした夏でもあった。

 保護者会が準備してくれた「移動水族館」。前日のその興奮が冷めやらぬ3歳児。それを形にしてみようと、その時に見た生き物をパソコンで調べて印刷をしていくと、「切って貼ろう」と声が上がる。

 大きな白いロール紙を広げ、子どもたちが切り出した写真の傍に保育者がその名前などを書き込んでいくと、「こんな丸い目をしてんだ〜」と新たな発見したり、自分たちも映り込んだ前日の写真も出すと、「ヒトデはこうやってクルってしてた」と、昨日の感動を交わし始める。その言葉も紙面に書き込んでいくと、「全然動かなかったって書いて」といったリクエスト。その言葉からも、よく観察していたことが伝わってくる。

 終いには、「魚たちが来たよってつけよう!」とタイトルまで考え、壁へテープで掲示するまでをやり切った姿に感心する担任だった(9月11日「経験を形に」)。

 暑い空気にぎゅっと園舎ごと包まれて、その分、内に向かう濃密な時間を提供してくれるのもまた、夏の巣籠もりだ。

 そして部屋の奥まで届く陽の光に乗って、2歳児室にも秋が忍び込んで来る。

 壁に映った二つの大きなドーナツ状の影を見つけて「タイヤじゃない?」と声が上がる。「お化けだよ」と言う声に、その影に重ねるように目と口に見立てた円形のシールを壁に貼る保育者。画用紙のサメを陽にかざし、「お化けを食べに来たよ」とその影を操る子。その性質を理解して遊びを広げる姿に感心する。

 そのくっきりと浮かび上がった影に、光遊びに絶好の日と気づいた保育者。自然界の不思議な現象を、子ども自身で発見していくことも多いが、この日ばかりは保育者の方が、自然光が生み出したアートに先へ先へと気づいていく。

 するとその度に、窓に貼った模造紙の間に色水のボトルを置いたり、緑色のフィルムを透過した光が見えやすいよう床に白い模造紙を広げたりと、少しずつ環境を動かしながら、この年齢の興味関心から大きく逸脱しない程度に、その少し上をいく美しさや不思議さに、さりげなく気づかせていく。

 そんな遊びが一段落ついた頃、ふと壁にあったお化けに目をやると、「なんか動いてない?」とその位置や形が変化していることにも気づいていく子どもたちだった(9月22日「影って動くの?」)。

 こんな大発見は、狙って辿り着けるものではない。目の前に巻き起こる出来事を保育者が一緒になって面白がっていった先で、たまたま巡り合っていくものだ。

 偶然を必然に変えていくのが保育…あらためてそれを感じるのだ。

(園からの便り「ひぐらし」2025年9月号より)

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