沈黙の夏
キラキラとした真夏の光をまといながら舞い上がるプールの水しぶき。それをのけ反り避けるように体ひねれば、虫取り網をかざして園庭を駆け巡る一団が、目に飛び込んで来る…そんな夏の光景は、もうなくなってしまうのだろうか。
今夏の園庭は憎らしいくらいに芝や雑草が伸び放題で、その芝刈りにはだいぶ骨が折れる。ひと気のない園庭では、伸びようとするその頭を、誰も踏んではくれないからだ。猛暑による外遊びの喪失が、こんな形で私の仕事にも影を落とす。
真夏の保育は水遊びやプール遊び、その順番待ちに終始して、経験の多様性が失われないように…そんなかつての自戒的な物言いも吹き飛んでしまうくらい、今は水遊びすらままならない。
いよいよ夏季の生活や遊び、経験の質について、あらためて考えてみる時代に入ったことを感じる。日中のほとんどの時間を空調の効いた室内で過ごす中で、どんな経験をどう育んでいくのか…猛暑をしのぐ保育ではなく、新しい形の夏の保育を作り出していく…それが、私たちの当面の仕事になっていきそうなのだ。
動きを止めたかに見える夏も、園舎の奥を覗けば、工夫と探求そして心揺れる経験を求めて蠢き出す一団が見つかる。
おやつを終えた2歳児。人気曲「パプリカ」を口ずさみ、上体を揺らしながら遊びへと向かう姿を見かけた保育者。「こんなに楽しい姿を見て、それに乗らない手はない」とばかり、「CDを借りに行って、一緒に踊ろうよ。」と提案。本当は、手元のパソコンでも流せるのだが、「自分たちで遊びを作っていることを感じてほしい」と、あえて遠回りをすることに。
ただあいにく、みんなで他クラスから借りてきたCDプレーヤーは不調なようで、度々再生が停止してしまう。けれどその度に動きが止めると笑いの渦…そんなハプニングも楽しんだという話(8月6日「ブラキオサウルス」より)。ひと手間かけて手にした遊びは、そんな不都合でさえ愛おしくなるのかもしれない。
3歳児になると、「自分たちで」という形も、ずっと具体的な「相談」というものになってくる。
クラスで持ち上がった「お祭りごっこ」。園の夏まつりも思い出しながら、出店やゲームコーナーなどを画用紙に書き込み計画書を作っていると、「ゲームもやったらさ、何か景品あるよね?」と声が上がる。どうしたものかと保育者が逡巡していると、「金メダルあげよう!」という声が。そう言って作り始める子どもたちを見ながら、「これも、相談すればよかったのか」と日誌の中で振り返る(8月1日「お祭りごっこ計画」)。
今夏の子どもたちもオリンピックの熱狂の中にいる。ちゃんと社会の空気を吸いながら生きているのだ。
話はまた2歳児に戻るのだが、相談と言えばこんな形もある。
外に出れないのなら、ビニールプールを室内に持ち込みたいと倉庫へ向かおうとすると、手伝いを志願する子どもたち。
倉庫を覗き込みながら、「これ持ってく」「それやってみる?」といったやり取りを通して、当初の遊びから変容していくことも珍しくない。「こういう時間を通して興味や関心を探ることができると、さらに遊びが楽しくなる」のだそうだ。「少し遠回りでも、この時間を大切にしていきたい」と日誌は結ばれていた(8月1日 「遠回りでも」)。
顔と顔を突き合わせるばかりが相談ではない。作業をしながら、具体物を眺めながら、まるでおしゃべりを楽しむように…そんな相談であってもいい。
8月に入って少し登園人数が減ってくると、4・5歳児のあかぐみで楽しんだ「粘土クリーム作り」を、クラスを超えて「みんなでやってみたい!」と声が上がる。そして、「やりたい人集まって!」と声を掛け合っていく(8月6日 「みんなで作る」)。これも夏の保育の姿だ。
そして室内の時間増えれば、まるで真冬の時期ようにカードゲームやボードゲームが盛り上がっていくのも4・5歳児。5歳児が持ち込んだ新たなトランプゲーム「スピード」。それを家庭でも実践を重ね、めきめきと腕を上げたとある4歳児は、「自分だけができてもつまらないから」とルールを知らない他児に積極的に手解きをするようになったという(8月6日「なんか、楽しくなくなった」)。
まだ生まれて数年の者たちのそうした営みを、「親切、優しさ、思いやり」といった言葉だけで形容してしまうことに、少し違和感を覚えてしまう。まだまだ自身の心地よさ求めていくものだし、そうであってほしいとも思うのだ。それよりも、「自分だけが幸せでも、つまらない」…そう呟ける大人こそが増えてほしい。
オリンピックのスケボー競技を観戦した元陸上競技のオリンピアンが、次大会へ向けた強化策を3点、SNSで呟いていた。その後に続くフォロワー達の「ストリートって、そういうもんじゃない」といったコメントが目に止まる。
「他人の失敗は祈りたくない」
決勝を逃したスケートボーダーのそんな言葉を思い出していた。
(園からの便り「ひぐらし」2024年8月号より)