この透き通った季節の中で

凛とした朝の冷気が、その澄み切った空を潜って届いた日差しで緩み始める頃、園庭の子どもたちも一斉に蠢き始める。冬の保育日誌に度々登場する光景だ。
「氷、どうなっているか見にいこう!」とHちゃんに誘われ、この冷え込みならきっとと彼女を追って園舎裏へと向かった保育者。「どう?」「凍っているよ!でも色がない。もう一回つければいいか。」と氷の容器を手に園庭へと戻る。
園庭に設えた即席の作業台に白い紙を敷き、その上に氷の円板をそっと載せる。梅皿に絵の具を取り、テキパキと準備を進める4・5歳児を追うように、3歳児も絵筆を握ると、画用紙の上で色のグラデーションを楽しんでいた。
すると、「え? すごい! Hちゃん、綺麗だね!」という声。その視線の先には太陽の光を浴びてキラキラと光る色づいた氷…それを見て思わず発した言葉だった。そして、「その感動をためらうことなく伝える姿は素敵だな」と呟く保育者なのだった(2月8日「綺麗だね」)。
ことさら「きれい」とか「美しい」という言葉を多用していないのに、子どもたちや保育者が冷たく澄んだ冬の陽に輝く「色」に魅了される様子、そしてそこに冬ならではの美しさを求めていく「審美性」が伝わってくる日誌。それを「素敵だな」と書き留めた保育者の感性も、同じくらい素敵だと思うのだ。
それから、ほどなくして迎えたのが恒例の「中の日」。クラス別の開催や参観人数の制限、そして当日までの活動経緯の理解(ブログの通読)やパフォーマンスへの参加まで…保護者のみなさんには、少し無理をお願いしている会だ。
本来、子どもはやりたがりで、見せたがり。それは、自分の感動に共感してほしいという思いがあるからなのだが、その奥には、まずは身近な人たちに自分の存在を受け止め、認めてほしいという根源的な願いが横たわっている。
普段、周囲の家族や友だちといった身近な人たちに、しつこいくらいに「見ててね」と披露したがるくせに、じゃあ見せてごらんと場をあらためたとたん、それを隠してしまう。それは安心感とのバランスの問題なのだが、目を凝らすほどにどんどんと見えなくなってしまうのが、子どもの表現活動が持つジレンマだ。
だから、もしそれをどうしても見たいと願うのなら、その者たちには一定の努力や工夫というものが、どうしても必要になってくる。
身近な人たちの前で、見る者も一緒にになって…それならばどの子の中にも、表現者としての片鱗を垣間見ることができるのではないか…そんな期待が今のスタイルにつながっている。
そして最近、またひとつ気づいたことがあった。
子育てひろば「いずみ」で毎月開催される地域交流イベント「ランランフェスタ」。時折そこへ、日頃の活動の中で作った物、楽しんでいる歌や踊り、遊んでいる事を披露をしに出向くことがある。そこにいるのは見ず知らずの地域の人たちなのに、パフォーマンスを終えるとなぜか達成感や充実感を携えて戻ってくる。それが、ずっと不思議でならなかった。
そして、11月の音楽を通した地域交流イベント「音の日」。それにエントリーした在園児有志たちの楽しげな様子を眺めていた時、そのわけが少しわかった気がした。それは、自分たちはただの一参加者にすぎないという安心感…それがあの伸びやかな様子と満足感を生んでいる…そう感じたのだった。
在園児で催す会は、自分たちがそこへ立たない限りそれが成立しないことを彼らは知っている。逃げ場はないのだ。一方、地域のイベントは自分たちが参加を止めたって中止にはならないし、そもそもエントリーだって自己決定だ。
すると、とたんにそれは、与えられた「責務」から自分たちの「挑戦」へと変わる。そして終えた後のそれは、「開放感」ではなく「達成感」へと変わるのだ。似て非なる2つ。その区別のつかない大人は案外多いものだ。
ある日の2歳児の部屋では、朝からままごと遊びが盛り上っていた。素材のフェルト片の山から、好みの色ではなく自分のパンケーキに乗せるフルーツの色を、ちゃんと選び取っている。
そして園庭に出ると、砂場にこぼしたバケツの水がみるみるうちに消えてしまったことに驚く男児と、その不思議さを共感し合う保育者。すると通りかかった女児が「ちょっと待ってて」とスコップでそこを掘ってみせると、「あったよお水、土の中に入ってた」と。突然消えてしまうことなどない。水は砂の中に染み込んでいくのだと、体験的にわかり始めているのだ(1月29日「パンケーキ」)。
乳児期の不思議な世界から、幼児期の確かな世界へ。進級の春を、子どもたちが手招きしている。
(園からの便り「ひぐらし」2025年2月号より)