目覚めの先で

 まだ半袖の肌の上を、すっと涼し気な空気が撫でていく…9月にもだいぶ入った頃、ようやくそんな日も訪れるようになってきた。

 すると、下ろしていた腰を上げ両腕で伸びをすると、どのクラスも今とばかり、続々と園庭、園外へと繰り出していく。多くの動物たちとは逆に、盛夏に巣ごもりするのが今時のヒトの生態のようだ。

 先日から、園の前を走る車道の補修工事が始まっている。園庭の築山から見える、忙しく動き回る「働く車」に魅了される3歳児たち。すると「見てて!ウィーン、ガチャン」とショベルカーになりきって、その動きを体全体で真似てみせる。

 その後出かけた公園の草むらで大きなバッタを見つける。皆が一斉に駆け寄ると、それに驚いて数メートルも飛ぶ姿に「おお〜!」と歓声が上がる。そして、皆が指先や小枝でちょっかいを出す度に、「ピョン、ピョン」と小さなジャンプを繰り返すのだ。

 そしてバッタと別れた後、一人が「ピョン」と飛び跳ねると、それは瞬く間に周囲に広がり、バッタの群れを作って帰路を進む。こんな身体表現の楽しんでいきたいと目を細める担任なのだった(うみぐみ 9月26 日「なりきって」)

 なりきり遊びが楽しくて仕方のない3歳児の今を拾ったひとコマ。体の使いこなしもうまくなってきて、その動きもずっとダイナミックになってくる。こうした表現遊びやイメージ遊びを通して、友だち関係も深まっていくのだ。

 さて同じ日、当然のごとく4・5歳児からも、お散歩!の声が上あがっていた。

 手の中いっぱいにどんぐりを拾い、それを風船に入れて振る子の周りに集まると、それを「どんぐり演奏隊」と名付けて「色々な楽器ができるかも」と周囲の発想も呼び起こされていく。途中で栃の実を見つけると、「綺麗!」「食べられるかな?」と調理の計画も持ち上がる。

 そして街路樹の脇を歩いている時、一人の「あ〜あ〜、気持ちいいな〜。」という呟きに、「何が?」と友だちが応じると、「だって涼しいし、葉っぱの陰に光が落ちてきて綺麗じゃん。」と返したのだった。

 木漏れ日の差す光景を「気持ちいい」と表現する感性に保育者が感心していると、それを聞いた友だちも静かに視線を上へと持ち上げていく。そして「本当だ。気持ちいいじゃん。」と呟くのだ。そばにいた保育者は、「共感性、その気づきの連鎖に感動」するのだった(あかぐみ 9月26 日「秋みつけた」)

 うみぐみとあかぐみ、2つのエピソードに共通していること、それは子どもの仕草に目を凝らし、その声に耳を澄まし、丁寧にその心情を拾おうとしていることだ。「何をしているか」ではなく「何を思っているか」…そこに保育者が寄り添おうとする時、次なる遊びや活動の構想が自ずと立ち上がってくるように思う。

 実は、この2つの実践にもう一つ共通していたのが、散歩に出かける前に(そのずっと前から)、どんぐりなど秋の自然物にまつわる絵本と関わっていた事。

 このことが、散歩中の発見や気づきをずっと深めていくのであるが、うみぐみの記録がさらに興味深い。

 秋の自然物へ興味を誘おう選んだのが、「14ひきのあきまつり」というねずみ一家の物語。ところが保育者の意に反して、「お母さんどれ?」「これはお父さんじゃない?」と、描かれている秋の情景よりも一家の人間関係へ気持ちを寄せる子どもたちを感じ、自分の期待とのズレに少し戸惑ったというのだ。

 もちろん、ねずみ一家の暮らしを描いた絵本なので、家族のありように心が向くのは当然なのだが、かといって、いきなり「木の実図鑑」を持ち出すというのも、3歳の子どもたちにはまだ…という保育者の判断もうなずける。

 保育の世界では、「子ども理解」という言葉がしばしば使われる。これは、単に「子どもの心情や思考をわかろうとする」ということに留まらず、保育者側の気付きやその内面の変容をも見つめようとする、なかなかに含蓄のある言葉。

 そして、子どもの反応が自分の予想とズレた時に感じる「おや?」という感覚こそが、実は「子ども理解」を深めていく。そのズレを振り返っていくことで、保育の手立てもまた洗練されていくのだ。

 あの盛夏をくぐり、まだ秋のとば口に立ったばかりというのに、すでにたくさんの恵みを子どもたちに届けてくれるこの地域の自然に、感謝の言葉もない。

 そういえば、この夏の巣ごもりの間、せっせと毛糸の帽子を編む者たちがいた。子育てひろば「いずみ」に集う、編み物集団「アミーゴ」の面々だ。

 2月に能登の子どもたちに贈った帽子を、次はウクライナの子どもたちに…その数が千を超え、いよいよ梱包作業に入るとの知らせが届く。

 ここにもまた、実りの秋が訪れていた。

(園からの便り「ひぐらし」2024年9月号より)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です