みんなで生きるワケ
今年は梅雨入りがずいぶんと遅れ、その分早めに到来した真夏日に、少し様子を伺いながら外遊びに向かう6月。
昆虫の飼育、野菜の栽培、園庭のビワやヤマモモの収穫…初夏の保育日誌は生命と向き合う場面であふれていく。
はなぐみ(2歳児)の部屋でも、アゲハ蝶の羽化が間近にせまっていた。そして担任曰く、子どもたちはその「奇跡の瞬間」に立ち会うことになる。その蛹(サナギ)の殻を破って誕生したのは…なんと数匹のヤドリバエの白い幼虫だった。
思い描いていたものと異なる者の登場に、理解が追いつかない子どもたちから「動いてる!」「目みたいのあるね」「蝶々は?」と声が上がる。
アゲハ蝶の幼虫は、他の虫に寄生されてしまうことが多いことを知っていた担任は、目の前の子どもたちにもわかるように、何とか事の次第を説明すると、返ってきたのは、悲しさや悔しさといった感情ではなく、「えー!」という素直な驚きの声だった。
そして翌日、まだ残された蛹に期待をかけながら、「この前のは、どれになっちゃったの?」と図鑑をめくり、自分たちが目にした自然界の出来事を、真っ直ぐに理解していこうとする姿に、担任は、「やはりあの瞬間を、一緒に見ることができて良かった」と感じたのだという(2歳児 6月17日「希望の一匹」より)。
私たち地球に住む者は全て、別の生命の犠牲の上に生きている。植物を食べる蝶と幼虫を食するヤドリバエに本質的な違いはない。「生命の大切さを知る」とは、それほど単純な話ではないのだ。
それは、合点のいくこと、いかないこと、色々な生命との出会いや別れを積み重ねながら、本人なりに「わかろう」としていくことなのかもしれない。そこで、私たち保育者がやるべきことは、眼の前で起こっているそうした多様な生命の営みを、「ほら」とその傍らで指を差し、一緒に見つめ、一緒に考えてみることではないだろうか。
そして今、クラスではヤドリバエの蛹も見守っていく事になったのだそうだ。
進級後の新生活もすっかり落ち着いてきたこの頃になると、その関心は足元の事からずっと周囲へと広がっていく。
このはなぐみの者たちも、今は絵の具やハサミといった道具を使ってみたくて仕方がない。そんな思いを受け、数人と七夕飾りを作っていると、絵本コーナーから「あーあ、破れちゃった。」という声が聞こえてきた。今のページをじっくりと見たい一人と、ページをめくりたいもう一人との思いのぶつかり合いで、ページが破けてしまったようだった。
同じものに興味があるからこそ繋がれるし、その分ぶつかり合いにもなる…この経験こそ大事と思いながら、自分がどうしたいのかを言葉で伝え合ったらどうかと、両者にアドバイスをした担任。
3人で敗れたページを直して保育者がその場を離れると、再び一緒に図鑑を覗き込む2人。「同じものが大好きな2人を、微笑ましく見守った。」と日誌は結ばれていた(2歳児 6月21日「同じものが好きだから」より)。
人間関係がぐっと深まっていくこの年齢では、友だちを作ろうとか、仲良くなろうとか、そんな思いで関わっていくのではない。自分が夢中になる物事を介して出会い、関係を育み、その結果として関わりを深めていくのだ。
そして、「同じものが好き」という経験をくぐったその先で、「違うものも好き」と言えるようになってほしい。そのためには、互いの「好き」を認め合い、相手のそれを楽しめる心持ちが必要だ。だから、時に絵本を破くくらいの「ぶつかり合い」が大事なのだ。相手には自分とは違う、別の思いがあるということを知っていくために。
ではその先、「他者の思いも楽しめる」ようになるには、どうしたらよいのだろうか。
それはきっと、「自分の思い」が大人(時に仲間)から認められ、大事にされる経験をたっぷりと積むことだ。そうでないと、「他者の思いを楽しむ」なんて心の余裕は、生まれそうにない。
そして、他者が好きなこと、自分とは違う価値観や能力を認めることができたなら、時にそれに刺激を受けて、想起されて、その力を借りて…仲間と一緒なら、自分以上の自分になれる瞬間を味わえるかもしれない。
たくさんの友だちを作るためでもなく、仲良くする術を知るためでもなく、力を合わせるためでもなく…私たちが目指したい経験とは…
仲間と一緒に自分を超える
(園からの便り「ひぐらし」2024年6月号より)