もっと自由になりたくて
このコロナ禍での子どもたちの育ちに思いを寄せる時、学童期は「学びを止めない」との大方針を耳にする。ならば、乳幼児期は「遊びを止めない」ことが何より大事なことになるのだが、さあこれからというこの秋口、先日の登園自粛要請の延長には、少し出鼻を挫かれた思いであった。
しかし、これももう少しの辛抱と言い聞かせながら、国連の「子どもの権利条約」に関する研修で耳にした「遊びは子ども主食です」という、その重要性を訴えるキャッチコピーを思い出していた。
保護者の方々にも、度々ご紹介する、この「子どもの権利条約」。日本も締約国に名を連ねる、この条約の第31条に、子どもの「休息および余暇の権利を認める」という大事な一文がある。研修の講師は、これを「何もせず、ボ〜ッと過ごす権利」と言い換えていたのが、とても印象的だった。
私は、どちらかと言うと、「余暇」よりも、身体を休める「休息」に重きをおいて理解していたのだが、そこには、もう一歩、積極的な捉え方があることを知ってなるほどと感心した。
つまり、暇を持て余すことが、どうしても必要と言うのだ。それは、何も差し迫るもののない、余白のような時間…いわば「アソビ」のような時間がないと、真の「遊び」が生まれないからだ。遊びとは、与えられるものでもなく、させられるものでもなく、限りなく自発的に生み出されるものだからである。
何時になったらこれ、それが終わったらこれ…といったように、促されたり、決められたことをこなすのではなく、自分の内から湧きあがる思い、興味や感心に任せながら、そこに没頭していくことが、本当の「遊び」だ。休息・余暇の後に続く、遊ぶ権利などを含め、この31条全体は「子どもの文化権」とも呼ぶべきものと説明されていた。
先日、あかぐみ(4・5歳児)のダンボールハウス作りの活動に遭遇した。時に意見を交わし、互いに刺激を受け合いながら、家の骨組み、壁や屋根、家具に電化製品にと、ダンボールや空き箱、廃材など様々な素材を加工しながら、どんどんと組み上げていく子どもたち。建築現場さながら、真剣な眼差しでそれぞれの作業に没頭している姿に、しばし圧倒されてしまった。
そして、それを支えているのが、ハサミ、ダンボールカッター、筆記具、テープ、ロープといった「道具」を、器用に使いこなす彼らの腕による部分も大きいことが、だんだんとわかってきた。
先ほどの、自由気ままな「アソビ」という隙間に生まれる「遊び」も大事なのだが、準備された一定の枠組みの中、仲間と同じイメージを共有し、共に夢中になっているこの姿も、私には貴重な「遊び」に思えてしまう。
「自由」には、「○○からの自由」と「○○への自由」があると聞いたことがある。前者は何らかの束縛から解き放たれることだとしたら、後者は、新たな知識や力を手にすることで、今までよりずっと、思い通りに物事を扱えるようになることを意味する。
あのあかぐみの活動で見た子どもたちは、まさに道具を上手く使えるようになったおかげで、一段とイメージしたものを造形しやすくなるという、さらなる「自由さ」を手に入れたとも言えるのだ。
しかし、束縛のない「アソビ」の時が溢れていても、勝手気ままな子ども任せの毎日を送るばかりでは、様々な素材や道具を知り、それを上手く操れるようになることは難しい。子どもたちだけでは、なかなか辿り着くことのできない「文化」との出会いを、大人たちによって演出されていくことも、子どもたちにとっては重要な「権利」なのだ。
ただ、それを必要以上に強制されることは、確かに「遊び」から離れていってしまうこと。子どもの自発性も大事にしながら、それを越えた、新たな出会いも果たしていくために必要なもの…それこそが、子どもとの「対話」なのだと思う。それは、大人が子どもの声を丁寧に聞き取り、それに十分に共感しながら、こちらの期待も精一杯伝えていく…そんなことなのではないだろうか。
そして、大切なのはその結末なのではなく、こうした対話を、絶えず続けていくプロセスなのだろう。
「思いが聞き取られること」もまた、子どもたちの権利なのだ。
(園からの便り「ひぐらし」2021年9月号より)