「中の日」の歩き方

 「コマ台の枠が外れてしまって…。」

 夕刻、保育者から声がかかる。コマ台とは、柔らかな土の上でもコマが回せるよう、プラスチックのパネルに木枠を取り付けた板台。園舎の修繕か何かで出た廃材を使って私が作ったものなのだが、それもいつだったのかを思い出せないくらい、長きに渡り歴代のコママスターを排出してきた(園内では何かにつけ、一定の腕前になると、「○○マスター」の称号が与えられる。)。

 見れば、もう簡単な修理がきかないくらいの状態。そして3日後の「中の日」に、そのコマ台を使って家族にコマ回しを披露したいというので、慌てて園舎の裏手へ材料を見繕いに。すると、まだ同じパネルの廃材が、かなりの汚れ纏いながら転がっているのを発見。そして、枠になる角材を求め、ホームセンターへと車を飛ばす。

 戻ってきた頃には、もうほとんど日は落ちていたのだが、ここ数日の春めいた陽気のおかげで、職員室の窓から漏れる光をたよりに、何とか玄関前で屋外作業が続行できた。

 すると作業台に置いたパネルの端から、スルスルと音もなく這い出てきたのは、季節外れの小さなヤモリだった。こいつもまた、この陽気の恩恵にあずかっているのかなと思いながら、なぜか眼下で動きを止め続けているヤモリに、私の作業も中断を余儀なくされる。

 そしてその頃から園内のあちこちで、「中の日」に家族と一緒に楽しむ予定の遊びを、「見せ合いっこ」と称して互いに披露し合う姿を見かけていた。

 すると、あんなに披露することを楽しみにしていたはずなのに、いつもの仲間が傍らで見ているだけで、なぜか彼ら彼女らのパフォーマンス…といってもそれはいつもの遊びの延長のようなものなのに、普段と違って急にぎこちなくなる。

 反対に、それを見ている側は「それやってみたい!」と次々と立ち上がるのだから面白い。そのゲストたちの勢いに巻き込まれるように、ホスト側も我に返ったように表情を緩ませ、一緒に体を動かし始める。これが表現遊びのあり方なのだと、子どもたちが教えてくれる。

 そこでその日の夕刻、例の「ともに中の日を楽しむために」を、保護者のみなさんに一斉送信することになる。

…前略…
 当日は、いつも通りのパフォーマンスとはならないのが子ども。それでも、一番信頼を寄せる人たちに、うまくやれている自分を受け止めてほしいという思いは本当なので、少しでもそれが叶うよう保護者の皆さんには少し無理を言って、今の形で開催させていただいています。

 なので、当日に過大な期待をしてはいけません。それを子どもに求めるなんて、大の大人がやることではありません。ただ、みなさんの努力次第では、その最高のパフォーマンスを手に入れることができる…その可能性はあります。

 そのために、やるべきことは2つ。

 まず、当日に至るまでのブログ(日誌)を読んで、ちゃんと予習をしてくることです。これが、中の日「まで」の歩き方。そして当日、観客ではなく子どもと同じパフォーマーになってくれること。これが、中の日「の」歩き方。見られるのではなく、いっしょに手足を動かして参加してくれることが、どれだけの子どもたちの安心感や充実感につながることか。

 立ち止まらずに、子どもたちといっしょに歩いてほしい。これが会を楽しむためのコツ、それをお伝えしておきます。

 すると、その配信の直後から、ブログへのアクセスがいつもの3倍へと跳ね上がり、翌日には「予習しました!」と幾人かから声がかかる。やっぱり、うちの保護者はすごい…。

 実はその裏側で、園内の保育者たちへもメッセージを送っている。

 いつも通りに子どもたちと円くなっても、保護者と子どもの間に立ってもいい。観る側が移動すればいいこと。プロセスが本番、当日はおまけ。胸を張って、いつもの保育をやりましょう。いつもの室内遊びをやりましょう。朝夕の保育のように、傍らの保護者たちと雑談を交わしながら。

 「中の日」の当日、それぞれの部屋をウロウロと巡る。パフォーマンスの輪に分け入る保護者が昨年よりもずっと多かったように感じたし、何より、子ども、保護者、保育者の間で、たくさん言葉や表情が交わされていたのが嬉しかった。

 子どもたちは、やっぱりやりたがりで、見せたがり。なのに「見せたい」けれど「見られたくない」︙こんなわがままな表現者たちのパフォーマンスは、じっと目を凝らすほどに見えなくなってしまう。

 そのチケット手に入れるため、大人たちの不断の努力は続いていく。

(園からの便り「ひぐらし」2024年2月号より)

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