それがせいび流 〜 行事を考える
新型コロナウィルスの分類も5類へと移行し、社会もそして園内も「かつて」への戻り方を模索しています。この機会に、コロナ禍で制限を受けていた園内の行事の持ち方について、あらためてお話しさせていただこうかと思います。
ここでいう行事とは、日本の伝統行事・季節行事や、懇談会、「園暮らし」といった保護者主体のものではなく、子どもたちと保護者のみなさん、そして保育者が一堂に会する場のことです。これを「保護者の参観を伴う行事」と呼ぶこともあります。
少し長いお話しにはなってしまうのですが、それはこれまで10年を超える年月をかけて、ずっと議論を重ねてきたことをお話ししなければならないからです。どうかお付き合いください。
コロナ禍の中で
3年前にコロナ禍に入った時、まだその正体が掴めぬ私たちは、社会全体の活動を一旦縮小していくことに決めました。それは保育施設も例外ではなく、当園では「在園家庭以外との接触機会を極力減らし、園内参集の規模を必要最小限にとどめ、そのかわり、子どもたちの毎日は変えない」という方針を取りました。そして、比較的その規模が大きくなる保護者が参観する行事(せいび祭り、運動会、お楽しみ会、卒園式など)については、その時々の感染拡大の状況に応じた実施方法を探りながら過ごしてまいりました。
時には中止することも含め、今までやってきた行事の形を変えるということは、その行事の持っている意味や価値を再考することでもありました。これは恐らく、日本全国の保育施設や学校も同様だったかと思います。
その時当園でこだわったのは、その形は変わっても、「その行事で大切にしたいこと(意味や価値)は、絶対に縮小しない」ということでした。そしてそこでよくわかったのが、その行事が持つ価値は必ずしもその規模で決まるものではないということでした。そして、感染予防のためと称したその間の議論も、コロナ禍に入るずっと前から、毎年再考を重ねてきた行事に関する議論の方向性と、何も違わない議論をしている自分たちに気付いたのでした。むしろ、新たな実施方法を考えることで、その形がさらに洗練されていくという実感もあることに、私たち自身も驚いたのでした。
行事の持つ危うさ
日本の保育や教育は、良くも悪くも行事というものを強く意識しながら組み立てられてきたという歴史があります。そういったものの多くは、本人の得手不得手関係なく、大人が決めた特定の何かを、なぜか大勢の前で披露することが求められる場です。確かにたまたまうまくいけば、本人にとっても一定の意味を持つとは思うのですが、そうでない場合は相当に苦しい場です。
そして、そこに関わる保育者にとっては、自分たちの指導とその成果が問われる場へと転化しかねない危うさを持っています。こうした状況は、子どもたちに表現させる形で、保育者の保育の成果を語らせようとするかのように、私には映ります。しかも、その出来栄えや見栄えが良いほど、保育者の力量が高いかのような錯覚に陥るリスクも感じるのです。
保育者の仕事の成果や意味は、保育者自身の言葉で語るべきだと私は考えています。毎日の日誌や便り、懇談会など、そうした機会はまだ他に残されているのではないのかと。
また一方、保護者にとっての行事は、それが極めて特殊な場面であるにもかかわらず、他児との比較の中で一喜一憂をしかねない場にもなっている気がします。生まれてまだ数年の子どもたちが、ある特定の分野や場面をうまくこなせるようになることが、必要以上に期待されてしまう…そんな危うさを感じることもあります。
分かち合う行事を
もちろん、節目を味わう、目標を抱く、飛躍の契機、ハレの日の高揚感など、行事が日常の中にもたらしてくれる刺激や彩りや潤いといった側面も理解した上で、では当園にとって、そんなエッセンスも残した行事のあり方は何かと言えば、「子どもたちの遊びや営み(の価値)を、みんなで分かち合う日」… 今はそんな風に考えています。
そこに、演者と観客という構図はありません。そこに集うみんなで「遊び」に取り組みながら、大人の視線を子どものそれに重ねて、子どもの遊びの持つ面白さや豊かさを感じ合っていく場、そしてここに集うみんなが、この園の仲間であることを確かめ合う場です。行事の持ち方に正解などありません。ただ、この園で大事にしていること(価値観)を、保護者も職員も子どもたちと一緒に共感していきたい…そうした集いの場を目指しているのが、当園の「外の日」や「中の日」であり、また卒園式なのです。
それは日常の中に
もちろんそうした場であっても、お子さんの園での活動の一場面を参観することにもなりますが、その育ちのハイライトは行事ではなく、なんと言っても日常の中にこそあります。なのでぜひ「園暮らし」へご参加いただきたいと思っています。
ただ、それでも全てが見えるとは限りません。それは、当たり前ですが、子どもの心や頭の中までを覗き込むことはできないからです。本来なら、「園暮らし」などの参観や体験を通して、考えたことや感じたことなどを、他の誰かと語り合えたのなら、実はそれももっと見えてくることもあるのですが。そうした他者の眼差しを通して場面を見返す一助にという思いも込めて、保育日誌(クラスのブログ)や「歩の記」(個別的な保育記録)を発信していますのでぜひお読みいただき、目に見えにくい育ちを一緒に探っていただければと思っています。
そして、もう一つ忘れてはならないのは、「我が子は、他児の中で育っている」という事実です。これは、我が子のみならず、その周りいるみんなの育ちに関心を向ける必要があるということです。周囲の友だちの育ちは、我が子を取り巻く最も重要な環境のひとつなのです。そういった眼差しで、保育日誌などを読んでいただけることを願っています。
そしてまた懇談会などが、そうした話をワイワイと語り合う場になっていけたらとも思っています。さらには、今回のような行事のあり方といった、私たちが日頃重ねているさまざまな議論の輪の中に当事者として加わっていただき、一緒に保育を構想し葛藤を分かち合っていく…それがこれから目指すべき懇談会の姿なのかもしれません。
私たちの役目
少し、大人のみなさんには耳の痛い話をします。
今年の4月から「こども基本法」が施行されました。これは「こどもまんなか社会」を目指す法律です。
そして子どもの頑張りや試行錯誤やそれを乗り越えた後に訪れる育ちは、日々の中にこそあります。しかもそれは、自分が本当にやってみたいと思ったことに没頭する中にあるのです。だからその内容は人それぞれ。
また、子どもは、元来大人の期待に応えようとする存在です。拗ねたり反抗的に見えても、大人に好かれたい、認められたいという思いの中で生きています。なので一見、自発的に取り組んでいるように見えることでも、実は大人の思いに「お付き合い」をしているのではないか…そんな思いで子どもを見つめ直していくことが、本当に大事なことなのだと思います。
子どもの本当の思い、そして本当に必要なことを見極めようとする努力が、今大人たちに求められていると思うのです。子どものためと言いながら、実は大人の満足や安心感のためなのではないか…それを自身に問うていくことが、大人の役目だと思うのです。これは、子どもの権利条約にもある「子どもの最善の利益」とは一体どういうものだろうかと考え続けていくことです。
そして、そこを理解していくためには、多少の手間と暇と努力が必要なのかも知れません(「園暮らし」へのご参加、お待ちしております。(^_^)/ )。「こどもまんなか社会」の実現は、そう生やさしいものではない…私はそう思っています。
大人こそ学びながら
178。この数字を何だと思われますか? これは昨年度、当園の保育者が出かけた研修・研鑽の場の数になります。1回が数時間のものもあれば1日~数日のものありますし、座学もあれば討議やワークショップもあります。日中の保育を抜けにくい状況において、これが多いのか少ないのかはわかりませんが、公私を問わずいろいろな学びの場へ出向いているようです。
そして、毎年子どもたち一人ひとりに「歩の記」(保育の記録)を綴っていくように、保育者たちそれぞれが、こういった研修や研鑽の履歴を「学の記」に綴っています。そこには、専門書などの書籍の記録も残っています。
つまり保育とは、それくらい一筋縄ではいかない、本当に高度で難しい営みなのだと思うのです(なにせ、「主体的、対話的で深い学びを」というのですから、みなさんならどんな保育を想像しますか?)。国から示される保育の指針や要領(保育や教育の基準)の中に「養護と教育が一体となったものが保育」と記されていて、これはいわゆる「育児」とは一線を画すものです。だから、私たちは振り返り、省察し、議論し、挑戦し、葛藤を抱えながら模索する毎日を重ねているのです。
そして変わり続ける
「行事の内容は、全て職員たちが決めています」…そんな私の言葉を聞いて驚いた保護者の方がいました。さまざまな学びを通して積み上げている知見を背景に、当園の保育者たちが時間をかけ少しずつ形を変えながら育ててきたもの、そしてこれからも私たちの成長と共に育て続けていくのが当園の行事です。
コロナ禍に入り、少し形を変えた卒園式の中で、「今年の式が特別なのではない。これからはこれが、うちのスタンダードになる。」と話したことがあります(「ひぐらし」 2021年3月号参照)。コロナ禍を経た今、全ての行事を続けていきます。その形は変われど、その中身は縮小せずにやってきました。そして、これからも変わり続けていきます。
また、園だより「ひぐらし」の中でも、幾度となく行事の考え方にも触れてきました。それは、行事というものは、社会の習慣やある種のノスタルジーをもはらみながら、時に目の前の子どもたちを置き去りにして、それぞれが固定化されたイメージを持ちやすいことを危惧するからです。
そしてページの最後に参考資料として挙げた「ひぐらし」のバックナンバーをお読みいただければ、コロナ禍とは関係なく、私たちがずっとその意味を問いながら歩んできたことが、おわかりいただけるかと思います。
おわりに
ここまで辿り着いてくださった皆さん、お目通しいただき本当にありがとうございました。何もそこまで…そんな声も聞こえてきそうです。しかし、こういった行事一つについても、その向き合い方にその園の本音が立ち現れるものだと思っています。いくら個性が大事、自発性が大事、自分で考えることが大事、主体性が大事といっても、その思いが本物なのかどうかは、そうした取り組みから透けて見えてしまうものです。
私たちには覚悟があります。それは私たちの保育の成果を、子どもたちに表現させるようなことはしない…そんな道を選んでいることです。それは、ずっと手間と暇と努力を要する、保育者に…そして時に保護者に…厳しい道のりだと思っています。
でもきっと、手応えを感じる子どもたちの姿に出会えた瞬間に、それは歩きがいのある道になるはずです。
(園からの便り「ひぐらし」2023年6月号より)
(参考資料)
ぜひもう一度読んでほしい…「ひぐらし」のバックナンバー
2022年3月号「そして、巣立っていった」
2022年3月号「そして、巣立っていった」(ブログ版)
2022年10月号「秋を暮らす」
2022年10月号「秋を暮らす」(ブログ版)