「ゆるさ」と「らしさ」

 快晴の園庭。明後日から「個人の判断」にもなることだし…思い切って、職員みんなでマスクを外して卒園式に臨む。

 コロナ禍となって3年。大勢が参集する行事のあり方が、全国の保育施設や学校で模索されてきた。それは同時に、子どもにとっての行事の意義を、あらためて問い直すことでもあったように思う。

 そしてその流れは、行事を少しコンパクトに変えながら、その主体を子どもへとシフトさせようといううねりをも、生み出してきたように感じるのだ。

 そして先日、他園の保育者仲間から、子どもたちに「どんな卒園式にしたいか」と問いかけることから取り組みを始めてみたという、とても素敵な実践の話を聞いた。

 式の中で、「楽しかったことを発表したい」「手遊びをしたい」といったアイデアを出し合って、みんな張り切っていたのだが、いざ予行練習が始まると、周囲からは、やれ背筋だの、お辞儀の仕方だのと声がかかり、その後クラスに戻ると「何だか楽しくなくなってきた」と声が上がり始めたという。「これって、どう思います?」と問われているような語りに、思わず苦笑いで返すしかなかった私。

 ある程度の見通しが持てればと、当園でも数日前になると、遊びをかき分け、園庭に椅子を並べて当日のイメージを掴むのだが、その時、担任たちは「卒園式ごっこやるよー」と言って子どもたちを集めていたことを、私は思い出していた。

 以前から私が、「リハーサルなんて、やればやるほど、子どもたちもどんどんとつまらなくなってくる。」なんて言っていたからかもしれない。

 その「ごっこ」は、全体の流れを追うこともなく、子どもが戸惑いそうな部分を掻い摘んで体験している様子。私も職員室からそれを眺めながら、私自身の立ち位置などを思い出してみるのだが、段々と自信がなくなってくる。

 なのに、前日になっても一向に私に声がかからないので、一回、やらせてもらえないかと、担任にお願いしてみると、「ああ、やります?」とライトな返事。

 確かに、背筋を伸ばし、ピシッお辞儀をして、両手でしかと証書を受け取ってと期待したくなる大人の気持ちも、わからなくはない。「式」ってそういうものでしょ? という声も聞こえてきそうだ。

 運動会や発表会と違って、「式」なんて、さほど「面白くて楽しい」というものでもない。こういった節目を味わうという行事は、子どもたちの自発性からというよりも、私たちが生きる社会の営み、文化や風習だ。それを、少しずつ我が事として体験していくことは決して無駄なことではない。

 そして、多少の窮屈さや緊張感を抱えながらも、自分はそこを潜ることができたという、単純な面白さや楽しさを超えた充足感や有能感のようなものを感じるのだ。それができるようになってくるのが、就学前のこの時期なのかもしれない。

 そして、こうした「式」との折り合いの付け方のヒントが、あの「卒園式ごっこ」という表現にあるような気がするのだ。

 はたからは、メリハリなく、緩〜く見えたって、自分なりに雰囲気を漂ったとか、それっぽく動きを合わせてみたと思えればそれでいい。ちょっと背伸びをして、いっちょ前な顔をして、勝手にできた気になるのが、「ごっこ」なのだから。

 それなのに、大人はどうしても、外形的な姿や動作に目を奪われて、それぞれが「自分なり」に思い描いた「ごっこの世界」には思いが及ばないのかもしれない。大人が勝手に思い描く画一的な所作よりも、一人ひとりの姿の違いこそを、味わうべきかと思うのだが。

 そして、式辞もなくなり、子ども、保護者、職員の三者で創る当園らしい式へと年々変容を重ねていく様子を、今年の式の中では、「ゆるさ」と「らしさ」という言葉で形容したのだった。

 卒園する保護者のみなさんから、雑誌仕立ての「もうすぐ小学一年生」と銘打った記念誌を作っていただいた。

 「あなたらしい人であってほしい」

 私は、卒園児へのはな向けの言葉として、11月の「ひぐらし」の中でそう書いていたのだが、この記念誌の最後のページに、その言葉への返信が記されていた。

 「一見シンプルだけれどムズカシイ、人生で最も大切な課題」

 「らしさ」が難しい世の中…みんな、そんなもの、とっくのとうに諦めてしまったのだろうか。ならばもう一度、卒園児たちに次の言葉を贈りたい。

 「だったら、それがムズカシイと感じるような、そんな生き方を選んでほしい」

(園からの便り「ひぐらし」2023年3月号より)

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