時をかける

 直径5〜6メートルほどの範囲の中に、点々と佇む男たち。余計な言葉を交わすことなく、てんでんばらばらな方向に視線を泳がせながら、少し緊張した面持ちで事の始まりを待っている。

 コロナ禍を経て3年越しの親父の会。久方ぶりに再開する卒園児の親父もいる中、その間にだいぶメンバーも入れ替わり、集合時のにぎやいだ雰囲気もリセットされた。これがこの3年という時間の意味。勝手知ったる古参の親父たちに、園庭作業の先導をお願いしていく。

 この日のメニューは、屋上窓のよしず掛け、板台作り、泥遊び場の整備。何とかミッションを達成した者たちに、紙コップが行き渡る。その頃には、親父の塊は3〜4メートルほどには縮んでいたか。さあ、ここからまた始めていくのだなと、少し清々しい思いで冷たいお茶をあおったのだった。

 ご存じの通り、当園の4・5歳児はあか・しろ・あおの異年齢で編成するクラス。とはいえ、時に4歳、5歳といった学年のグループで集まって過ごすことだってある。
 先日、久しぶりに4歳児のみんなで散歩に出かけた様子が、保育日誌に記されていた(5月24日「蘇る記憶」)。このメンバーは、3月までうみぐみ(3歳児)で一緒に過ごしてきた仲間。そしてその日、一緒に散歩に出かけたのが、偶然にもその当時の担任保育者だったのだ。

 そして、その一行がとあるマンションの前に差し掛かった時、「まーちゃん、いないね。」と、昨年度の途中で転園していった仲間の名を誰ともなく呟く。当時、お散歩でここを通りかかる度に、「ここは、僕のおばあちゃんち」と教えてくれていた彼(まーちゃん)の声を、保育者も一緒に思い出していた。

 そして、目的地の公園に到着するや否や、皆滑り台へ駆け上がっていくと、早速「あれやって」と当時みんなとの間で何度も楽しんだ、この仲間だけが知る恒例の遊びをせがまれた保育者。

 かつての「仲間たち」と「まーちゃん」と「担任」と、そしてこの「滑り台」。それらが揃った瞬間に、みんなで当時に一気にタイムスリップしたような…そんな時間を過ごしたのだという。

 ある種の感慨を抱きながら、かつてを振り返ることだってある。過去の経験を己の中に位置付けながら、今を生きることができるのが4歳児なのだ。

 一方はなぐみ(2歳児)の日誌(4月29日「いない いない ばあ」)によれば、2歳児のそれは少し趣を異にするようだ。

 保育室の中にある絵本や物陰に隠れては、「いない いない、 ばあ〜」と顔を覗かせる遊びが始まっていた。たまたまそこへ通りかかったのが、3月までにじぐみ(1歳児)で一緒に過ごしていた保育者。彼女が扉の丸窓から「ばぁ〜」に合わせて顔を覗かせると、驚きと再会に歓声があがる。「今日はどこ(のクラスにいるの)?」と問いかけているところを見ると、どうやら、今は別のクラスを担当していることは理解しているようだった。

 その後外遊びに向かうと、「いない いない ばあ」が、今度は全身を隠す「かくれんぼ」へと変化していく。すると一人の子が、「森先生は〜?」とその姿を探し始める。彼女は、年度末に退職した昨年度のもう一人の担任だった。

 「さっきみたいに、いないかな。」と言うので、「いないんだよ」と伝えてみると、返ってきたのは「森先生、隠れるのうまいねぇ」と言う言葉。少し切ない思いも抱きながら、先ほどのかつての担任との再会をきっかけに、もう一人の担任へと思いを馳せたことにも驚いたという。

 親しかった人が急に目の前からいなくなるとは、まだまだ状況を飲み込めない者たちにとってはどんな感覚なのだろう。

 一方で、こういった状況をさらっと自分なりの理解や理屈で片付けていくのも2歳児。そして何事もなかったかのように、また毎日を邁進していくのがたくましい。ここに大人の勝手な感傷などは無用だ。

 今と同時に過去を持ち合わせながら生きるようになることが、その思考の中に、味わいや少し深みのようなものを与えてくれる。そこを通して溢れ出す言葉が、また少し、育ちを感じさせてくれるのだ。
 「そういえば…」と、少し前の記憶が蘇ってくるのも、今年度の新しい生活に、ひとごこちがついた今だからなのかもしれない。

 そして、やがてその記憶も遠のいていく。これから生まれていく次なる過去が、それを刻一刻と塗り替えていくのだ。

(園からの便り「ひぐらし」2023年5月号より)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です