「やりたくない」の向こう側

 子どもたちは本来、やりたがりで見せたがり。ただそれは、まだまだ身近な人たちとの安心感の中で、時に一緒にパフォーマンスなどすることで、それが周囲に共感されていることを実感する。

 そして来月、それを親子で楽しむ「中の日」がやって来る。何をやってもよいというこの日をどのように迎えようかと、4、5歳児たちそれぞれのチームが、やんややんやとにぎやかになってきたことは、毎日の日誌(クラスのブログ)でご覧の通り。

 「これ、やりたい」「それ、やりたくない」と喧々諤々の毎日なのだが、それは、こういった活動に限ったものでなく、日常のあちこちで巻き起こっているのが子どもの世界。

 そこを拾った、こんな日誌を読んだ。

 ある日の4歳児。造形遊びをしたいという声に応えて、絵の具遊びを提案した保育者。「やりたい」という多くの声にまぎれて、「やりたくない…」も聞こえてくる。そこですかさず、「今日は、タンポやローラー、歯ブラシを用意したよ!」と言って大きな模造紙と様々な道具も紹介すると、表情が一変。

 すると「ローラーって太く描けるよ。」「タンポに二色を混ぜると、マーブル模様になる!」「歯ブラシで擦ると、面白い模様が出てくる!」「色んな道具があると面白いねー。」と夢中になっていく。

 終いには、手のひらに絵の具をつけると、「指を使うとタンポみたいに描けるね。」「これはもう手も道具だ!」「本当だ!手もローラーと同じだ!」という物言いに思わず頬を緩める保育者。

 そして、いつもとはひと味違ったその出来栄えに、「先生、これはこのまま終わりにしたらもったいないよ。」「うん、何かに使えるくらい良くできている。」と満足げな子どもたち言葉で、日誌は結ばれていた。(1月12日「手も道具」より)

 「やりたくない」には様々な理由がある。「見通しが持てなくて不安」(未経験)、 「一度失敗して自信ない」(未熟)、 「つまらなそう」(簡単で物足りない)、「気分が乗らない」(情緒的不安)などなど。

 まだ生まれて数年の初めてだらけの者たちに、「じゃあ、やらなくていいよ。」というのでは、いつまでたっても新しい感動とは出会えない。すると、この世の中を好きになっていくことができない。

 かといって、無理強いや我慢、大人に気を使わせて「お付き合い」をさせてしまうのもいけない。次なる新たな挑戦心を、どんどんと奪ってしまうから。

 だから「やりたくない」に、どんな環境や言葉を用意しておくのかという見通しや準備が、大事になってくる。ただ集団には、それぞれに様々な理由が混在しているので、それは言うほど簡単なことでもないのではあるが。

 「子どもが新しい価値世界(物事)に出会う瞬間を、私たちはどう演出していけばよいのだろうか。」
 とどのつまり、これを追求していくことが保育・教育で、これこそが、大人が果たすべき重要な役割の一つなのかもしれない。

 そして忘れてはならないのは、それでも最後は、「やらない」という本人の選択は、「やりたい」と同じくらいの重みを持って、尊重されなければならないということだ。

 これは、「食べない」「寝ない」「まだトイレに行かない」といった生理的欲求に基づく選択や、LGBTQといった多数派とは別の生き方を選べることへもつながる、大切な権利だと思うのだ。

 かつて、「我が子に回避するという応じ方も伝えたいので、運動会を欠席したい。」と相談受けたことがあった。確かに大勢が集まる場は苦手なのだが、その子には実はもう一つの別の思いがあったのだ。それは「やれる自分でありたい」という憧れにも近い思い。そして、そこへも寄り添うべきなのではと、みんなで話し合ったことを思い出す。

 発せられた言葉が、真実を語っているとは限らない。その奥にある無意識的な願いにも近い心情をも聞きとらなければ、誤ったメッセージを受け取ってしまう。だから、「やらない」も、なかなか一筋縄ではいかないものなのだ。

 それにしても、先の日誌に語られていく子どもたちの言葉は、何とも興味深い。「このまま終わりにしたらもったいないよ。」という思考には、「やりっぱなし」という幼児性から抜け出そうとする、合理性にも似た育ちを感じる。これが、大人になってしまうと、「何かの役に立たないのなら意味がない」という極端な思考に行き着いてしまうのだろうか。

 「もったいないよ」と、その先のワクワクする「可能性」を語ろうとするこの言葉を、とても魅力的に感じるのだ。

(園からの便り「ひぐらし」2024年1月号より)

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